人によく思われること

人によく思われたいという気持ち

人に感謝されたいという気持ち

この二つを捨てるだけで、ずいぶんすっきりすると思う。

 

だいたい、人に対するストレスというのはこの2つからきているように思う。

それにプラスして、人に勝手に期待することを捨てればさらに良いと思うけれど、それはもっと難しいし、また別の話。

 

とにかく、だいたい他人に感じるフラストレーションや不満や報われなさみたいな感情は、この、自分をよく思われたい、自分のしたことに対してきちんと感謝されたい、という思いに起因しているような気がする。

 

難しいことだけれど、別にもう自分をよく思ってもらう必要もないやと思えれば、非常に楽になれる。

これは全面的にそう思うことは難しくても、局所的にはできる。

この人には別にどう思われてもいいや、というのは、わりとできる。というかそういう機会は生きている中で出てくる。

別に自分をよく思ってもらう必要もないと思った相手に対しては、心理的に距離ができるというか、こだわらなくてよくなる。どうでもいいと言ってしまうと言葉が悪いけど、まあ要するに、どうでもいいのだ。だからといってぞんざいに扱うとかそういうことではなくて、相手がどう思おうと、それはまあ相手の話というか、いちいち追及して気に病んで考えてこだわる必要がなくなる。

 

これはまあ誰にでもあるはずのことで、「旅先の恥はかきすて」などと昔から言う。

旅先で、この先死ぬまでに度と会うこともない人に対しては、恥をかいてもまあどうでもいいやと思える。別にどう思われたところで、関係ないからだ。よく思われよう思われようと必要以上にしなくてもいい。だから旅先の恥はかきすて、などという。

実に日本らしいことわざだと思うけれど、それはつまり、こういう実感は深く私たちの心に根差しているということだ。

 

旅先まではいかなくても、日常の中でも、まあこの人にはどうしてもものすごくよく思われたいとかは無いな、という相手や場面はある。そういうときの、ちょっと心が離れている感覚とか、フリーな感覚っていうのは覚えておいていいと思う。

 

全部が全部そうは思えなくても、まあそこまでよく思われよう、思われようとこだわる必要もないか、という感覚は、それはそれで持っておくことは大切だと思う。

 

気に病んだり気をもんだりしているときには、よく考えてみると、「よく思われたい」という思いに囚われていることが多いから。

 

仏教は執着から離れよという。よく思われたい、というのも、執着だ。「我執」、つまり「自分」というものにこだわって身動きが取れなくなっている。自縄自縛になっている。自分で自分を縛っている。

 

別に自分がなんだ、と思えたら、ずいぶん楽になれる。

そこまで自分をその人によく思ってもらう必要って本当にあるんだろうか。

他人の気持ちなんかコントロールしきれるわけはないのに、ずっといつまでも思い通りによく思ってもらおうとし続けることに意味はあるのだろうか。

別に、最終的にはどう思われていようと仕方ないというか、どうでもいいんじゃないだろうか。

まあどう思われても、関係ないといえば関係ないか、と思えれば、ちょっと離れられる。フリーになれる。心にその分スペースができるということだ。

 

ちょっと待てよ、そこまでここで良く思われることに固執する必要ってあるんだろうか、と思えれば、結構違ってくることって多いと思う。

 

冒頭に2つのことを挙げたのに、人に良く思われる方のことを書いたら長くなってしまった。また別に書こう。