意味から離れるということ

意味から離れるとはどういうことか。

怒りを例に考えてみたい。

 

怒りは、自分が他人に持っても、他人から持たれてもとても不愉快な感情なので、好都合な例になる。

 

他人が自分に向けてくる怒りについて考えてみる。

 

意味から離れるとは、意味を脱落させてしまうということだ。

意味を脱落させるとは、意味をそこから抜いてしまうということ。

要するに、ただそういう現象があるとだけ捉えて、そこに意味を見ない。「怒り」という意味を見ない、「怒り」という意味を抜いてしまうということになる。

 

仏教では、全ては「縁起」するという。依って起こる。様々なものが依存しあい、作用しあって物事は成り立つ、と説く。

親であるためには子がいなければならず、子であるためには親がいなければならない。男であるためには、男でないもの(女など)がいなければ成り立たず、同じように女であることは女ではないもの(男など)の存在に依っている。相互に依存、規定しあいながら、全ては起こっている。

何物も単独では存在し得ない。簡単に言えばこれが「空」である。

 

何かが依存している「もの」もまた他のものと相互依存しているので、どこまでいっても終わりがなく、これだけが実体だというものもない。

全てはたまさかの泡のように浮かんでは消え浮かんでは消えしながら、その都度そのように縁起して出来上がっているものにすぎない。全てに実体はなく、儚く移ろいゆく。

 

「諸行無常」や、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え かつ結びて……」や、「散る桜 残る桜も 散る桜」(良寛)などが仏教的だというときには、こういう事態を指している。

 

だから、そのようなものに執着するな、執着するから苦になる、と仏教は言う。

本来この世に執着できるようなものはない。全ては「空」なのだから。

それを観よ、と言う。

それが悟りである。

 

話がいささか逸れた。

話を元に戻せば、というより換言すれば、これは全てはそのように現象しているだけ、ということになる。

全ては今この瞬間にそのように依って起こっている、縁起している、現象しているということになる。

 

ただそのような現象が起こっているだけ。

それに意味づけをしているのは人間だということになる。

 

これを怒りに適用すれば、どのようになるか。

怒っている人がいるとする。

怒りを自分にぶつけてくる。それを受けて自分は不快になる。

これを、脱意味化してしまう。

怒っている人がいる。

それはただその人が大きな音を出し、顔を真っ赤にし、口角泡を吹き、ある周波数と響きを持った音を口から出している、ただそういう現象が起きているだけということになる。

そこにそれ以上の意味を見出さなければ、ただそういうことが起きている、ただそういう現象が起きているだけということになる。

もちろん、それを受けてどうしても不愉快だったり怯んだりする感情が自分に起きることもある。でもそれも、ただそういう反応が自分の中に起きているだけ、そういう現象が起きているだけだと捉えて、それ以上の意味をそこに付さない。

全てのことは、ただそのように起きていっているだけなのだ。

もちろん、そんなドライにはなかなかできないことの方が多い。

でも、ああ今こういうことが起きているのだな、ただこのような現象が起きているだけなのだと少し冷静に観られれば、そこにいかに必要以上の意味を勝手に自分が付け加えているかにも気づく。

ただそのように今ここで現象しただけだと捉えて、終わればそこにそれを置いてまた次に進めばいいのである。引きずらない。

それがその都度物事は縁起しているということを生きる一つのあり方ということになる。

その時その時をあるがままに生きる。

意味から離れるということ。それは淡々と生きるということでもある。