十牛図と悟りの境地

昨日の続きで悟りの境地とはじゃあ一体どういうものなのかについて、面白いたとえがあります。

「十牛図」という有名なものなのですが、悟りを牛にたとえて、悟りに至る段階を10枚のイラストで示したものです。

 

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こちらのブログ様から勝手に拝借しました。すみません。 

abetoshiro.jp


要するに少年が牛(悟り)を見つけて追って行って、捕まえて、自分のものにして乗りこなす。

ここまでが1~6です。

上の十牛図でいうと、下段一番左までですね。

 

面白いのはここからなんですね。

牛(悟り)を捕まえて自分のものにし、乗りこなすことができた。普通に考えればここまででいいわけですね。少年も笛など吹きながら楽々と乗りこなしているわけですから、これでめでたしめでたしで良いわけです。

 

でもそうはならない。

続きがあって、それがまことに不思議で、味わい深いものになっているのです。

次の7には、牛の姿はありません。少年は牛を忘れてしまったのです。

そうです、昨日のエントリーで書いた通り、悟りを得たら、その悟りは忘れなければならないのです。というより、そうなるものなのです。

少年の隣には牛はいない。少年はもはや悟りを持っていないのです。

 

悟りを手放した少年には何が起こるのでしょうか。

それが次の8です。

空白です。仏教でいう「空(くう)」でしょう。何も無くなってしまった、というのは仏教的には正確ではなくて、これは「空」です。空になってしまったのです。

空については過去の記事で私なりに書いています(http://www.zen-nezumi.com/entry/2017/11/24/200000)。

 

そして9、花です。自然です。

もはや少年の姿はありません。ただ自然がある。

有名な「色即是空、空即是色」(すべてはすなわち空であり、空とはすなわちすべてである)が思い出されます。

要するに悟りの境地です。

 

しかし、十牛図はこれでまだ終わりません。これが十牛図の面白いところで、仏教の面白いところです。

10番目の絵、ここでは、少年はメタボなおじさんになってしまっています。

十牛図によっては、もっと汚くてみすぼらしいおじさんである場合もあって、私はそっちのほうが好きです。

子供のように楽しそうに笑っているパターンもよくあります。

そうです、少年は最後には、ただ楽しそうにしているだけの少しだらしないおじさんになってしまったのです。

そしてよく分かりませんが、何かを手渡しているのか、遊んでいるのか、子供と交わっています。子供と一緒にいられるような、無邪気なおじさんになっているのです。

 

これが十牛図の示す悟りの姿です。

最後にはただのおじさんになってしまう。そのへんにいるようなただのおじさんです。ただ子供のような朗らかさと自由さを持っている。

これは悟りの最後には、悟りからも離れ、仏教の教えからも離れて、全てから離れて何もない状態になってしまうということです。ただあるがまま。そうです、まさにただあるがまま。傍から見れば、それは何の変哲もないおじさんと変わりないのです。

 

しかし、仏道を極めて行った結果、結局ただあるがままの姿になるだけでは、結局、ここにいる自分と何が違うのかということにもなりかねません。ただ無軌道に好き放題していればそれで悟りの境地ということになるのか。

もちろん、そうではありません。

ただなすがまま好き勝手にすることを、仏教は「自然外道」と呼び戒めます。そうではない。でも、執着でもない。

じゃあ一体それはどういうことなのか。

それを指して、私が浅学菲才なりに今まで読み聞きしてきた中で一番しっくりきている言葉は、「無取捨の中の取捨」というものです。

無取捨、つまり執着してこだわって選ぶのではなく、取捨しない。無取捨で臨む。

しかしその中で、選ぶ。

選んでいないわけではない。しかし、選んでいるわけでもない。

まさに禅問答のような書きぶりになってしまいました。

しかし、うまく言えませんが(私は何も悟っていないどころか全然実際には何も分かっていないのですから当然ですが)、好き勝手なすがままにするのではなく、かといって選別をするのでもなく、その中で選んでいく、無取捨しながら取捨していく、それが、十牛図の最後にいるおじさんの姿なのではないでしょうか。

やはり、こう書いていても、全然何を書いているのかわかりませんね。