言語を打ち破れ

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仏教では「欲望を捨てて、”無”の境地になりなさい」って説くけど、「”無”の境地を目指す」という意思って欲望だよね。」

 

何日か前、増田ダイアリーでこういうのがあって、そうだよなぁと思った。

そうだよなぁ。

本当にその通りなのです。

「欲を捨てたい」という欲を持っているうちは欲を捨てられていないのだから、最後は「欲を捨てたい」という欲を捨てなければならないわけなのだけれど、でもそれって、「『欲を捨てたい』という欲を捨てたい」という欲を持っていることになってしまうわけで、どこまでいっても終わりがないんですね。

だから昔から禅僧も、特に悟った禅僧というのは、悟りとは何かとか自分の境地は一体どういったものかということについて、終わりのない言語活動みたいなことをしてたわけなんですね。どうやっても言い尽くせないというか、どう言っても無限後退みたいに終わりがないというか、どうしようもない。

結局普通の言語活動をしていたんでは到底とらえられないから、無限に言い換えて行ったりとか、わけのわからない言語活動をしたわけですね。

言葉ではとらえられない。

これがよく聞く禅の公案というやつですね。サリンジャーも短編に引いていた、有名な隻手の声、両手を合わせたら音がするけどじゃあ片手で鳴る音って何だ、みたいなよくわからないクイズみたいなやつです。

 

禅というのは本当は言語を問題にしています。私たちは言語でこの世界を見ている、言語の虜囚になっているということを、禅僧は昔から分かっていたんですね。

だから言語を乗り越えなければいけないわけですが、人間はその言語を使わずには思考できませんから、これはどうあがいても勝ち目がないわけです。

ですから、普通に言葉を運用していたのでは破れないから、公案のようなわけのわからない言語活動をしたり、ひたすら座禅に打ち込んだりして、言葉では表せない境地というか、言語から逃れたところへいこうとしたわけです。こういうと何か神秘主義みたいな感じがしますが、人間は言語から自由になれないぞ、という問題意識はソシュール以後西洋の現代思想のものと共通しているんです。

 

何やら話がそれてきましたが、冒頭の増田さんもおそらくお気づきの通り、悟りっていうのは、捨てなくちゃいけないものなんですね。

悟ったぞ、となった瞬間に、「これが悟りだ」と言い切ってしまったら、もうその時点でその「悟り」に執着してしまっているわけです。

仏教ではこのように何かに執着してはいけないと教えます。

ですから悟った瞬間に、その悟りにすら執着してはいけないのです。

悟ったその悟りをその瞬間に捨て去らなければならない。

悟りにも執着してはいけない。

だから最後はおそらく悟ろうという気持ちすらなくなっているはずなのです。

仏教は悟りを目指しますが、最終的には悟りなどどうでもよいということになっているわけです。だって悟りを目指している時点で悟りに執着しているわけですからね。

だから悟った禅僧というのは、その境地を表そうにも無限後退みたいな、常に永遠に言い換えていくというような形でしか言語活動では表せないんですね。あるいは、普通に読んだのではわけがわからないような言語活動をする。

あるいは、ごくごく当たり前のことを言ってたりする。

かの道元禅師は悟りを得て中国から帰ってきたのち、その境地について「目は横についていて鼻は縦についている」と語っておられます。

悟った人にとってはその悟りはもう悟りではない。

 

論理破綻しているというのは、言語であらわそうとする限界に過ぎないんですね。

言語では限界があるということを踏まえてそこからスタートしているのが禅なのです。