私のものじゃないテキスト

書くことは、やはり誰かに褒められることが目的になってはいけないと思う。

これは個人的な感覚だけれど、自分にとっては本当だ。

書くことはやはり書くことそのものが楽しみでないといけない。

 

そして書くことの楽しみというのは、自分が次に何を書くか分からないことにある。

次にどんなことを書くのか初めから全部分かっていたら、私にとってはそれほど大きな楽しみにはならない。

次にどんなセンテンスが出てくるのだろう。自分は一体何を考えているのか。

文章を書くことの喜びはそういう発見にある。わくわくと言ってもいい。

だから、書くことそのものが目的になり得るのだ。

 

要するに書くならば、どういう形であっても、その目的は達せられる。

別に誰にも見せない文章でそれをやってもいいわけだ。裏を返せば、誰かに見られる(かもしれない)文章でそれをやってもいいわけである。こういうのは種類の違いであって、優劣の問題ではない。

私は日記も書くし(これは誰にも見せないものだ)、いろいろな(というほどでもないけれど)書くツール・場所もあるわけだけど、ブログはブログでまたここまで書いてきたような営為ができる一形式でもある。

 

人間、案外書いてみるまでは自分が何を考えているか、何を書こうとしているかはわからないものである。

書いてみてさえ、その書いた内容や日本語は実際には自分のものではない。

テキストは作者のものではない。

これはフランス現代思想でもすでに言いつくされたことだ。

そして私はこういう考え方が好きだ。禅にも通じる。

現代哲学、とくにフランス現代思想と禅は非常によく似ているというのは私の大きな興味関心の一つだけれど、それはまた別の機会に譲ろう。

そもそもそんなに詳しく語れるほど学があるわけでもない。

 

そういうわけで、このテキストも私のものではない。

この、私のものではないというのが、軽やかでいいなぁ。

 

考えてみれば、頼んでもいないのに伸びていくこの指の爪だって、私のものだとは言えないはずなのだ。これは私だと言えるだろうか? 私はまったく爪を伸ばすことについて意識も意図もしていないのに。これは勝手にそうなっているものなのであって、いわばこれは自然と同じだ。爪は自然なのだ。

同じように私の臓器だって、別に私がコントロールしているわけではない。私の脳や身体がコントロールしているのかもしれないが、勝手に行われているだけで、別に私の意思のもとにあるわけではない。

浮かんでくる思念もそうだ。次々に浮かんでくる考えだって、なぜそれが今浮かんでいるのかというのは、本当には自分では説明できない。ただそういう考えが浮かんできているだけなのであって、これは言ってみれば、そのへんの空に浮かんでいる雲と一緒だ。ただ自然に浮かんできているのだ。そのほとんどは、これまで読んだこと、聞いたこと、環境から影響を受けたこと、要するに外部から入力されてできあがってきたものなのであって、自分自身で考えたと思っていることも、ほとんどすべては外部から到来したものの混合物に過ぎない。別の国、別の時代に生まれ育っていればまったく別の考え方と個性を持った自分がいたであろうことを思えばすぐにわかる。これを現代思想では構造主義という。これを、仏教では縁起という。

 

要するに、実際には私のものなどというものは、ない。

「私のもの」から自由になれれば、どんなに軽やかだろうか。

私のもの、私へのしがみつきをなくせば、ちっぽけなことで気分を害することもずいぶん減るだろう。

 

しかしそうは言っても、それがなかなか難しい。

ああ軽やかな心持ちとはああいうものだろうか、と思いながら今日も空を見上げるだけです。