自分を解体するということ、あるいは空について。

ネコ師匠が、宮沢賢治の「自分を勘定に入れない」という言葉について書かれていた。私もこの言葉は好きだったけどずっと忘れていて、感じ入った。

私はネコ師匠に私淑しているのでこのように刺激をいただいて後追いで何か書くのです。

 

宮沢賢治は法華経なので禅宗とは違うけれども、それでも仏教という根っこは同じなので、通じるものがあるだろうと思います。

禅は「自分」をなくせと言います。というか「自分」なんかどこにもないんだと。空で自分を解体してしまう。

賢治の自己犠牲的な考え方は、やはり仏教の「捨」ということで禅宗とも通じていると思う。

 

じゃあ自分がないってどういうことなのか。

自分を解体するってどういうことなのか。

 

禅ではしばしば自転車が喩えとして使われる。これは古くからは車輪などが喩えになってきたものだったと思います。

 

自転車があって、一つずつパーツを分解して取っていった場合、どんな状態になったときにそれは自転車ではなくなるのか。

サドルがなくなったときなのか。

ハンドルが片方なくなったときなのか。

タイヤのゴムの部分がなくなったときなのか。

車輪が1つなくなったときか。

 

あるいは、パーツを1つずつ他人の自転車のものと交換していった場合、どこまで交換したときにそれは自分の自転車ではなくなったと言えるのか。

目の前に自分の自転車がある。その隣にAさんの自転車がある。少しずつ両者のパーツを交換していく。

全部のパーツを取り替えてしまえば、それはもうもちろん、目の前にあるのはAさんの自転車になる。では、どこまで取り替えたらそうなるのか。

ハンドルの一部を取り替えても、目の前にあるのはまだ自分の自転車だろう。車輪を交換したらどうなるだろうか。チェーンはどうか。一体何をもって「自分の自転車」と言えるのだろう。

 

これは換言すれば、「一体どういうまとまりが自転車なのか」という問題になる。

色々なパーツが集まって、自転車はできている。このパーツこそが自転車「そのもの」である、とはなかなか言えない。ある「まとまり」をもって「自転車」と名付けている。

 

では、その「まとまり」に絶対的な答えはない。

 

ここから話は少しずつややこしくなっていく。

でもとにかくある「まとまり」を「自転車」としているなら、そのまとまりの捉え方に確実な正解はない。

どのパーツが解体されてなくなったときに「自転車」でなくなったか、どのパーツが替えられたときに「自分の自転車」ではなくなるか、それは人それぞれであり、捉え方の違いであり、これが宇宙の真理であるというようなものはない。

 

つまり、「何が自転車なのか」は決められない。

「本当の自転車」などというものは存在しない。

「このパーツが自転車の本体である」などというものは存在しない。

集まった全てで自転車であり、かといって全てがなければ自転車でないということもない。

全てのパーツが自転車であり、全てのパーツがそれ自体では自転車ではない。

 

「自転車」とはそういうものなのだ。

「もの」とはそういうものだ。

自分とはそういうものなのだ。

 

自転車は、あるのでもないし、ないのでもない。これを「空(くう)」という。

この世界は空である。

大乗仏教はこのように説く。

 

 

これを「自分」に適用すれば、自分は解体されてしまう。

それを完全に身につければ(というか自分は解体されてしまっているのだから身につける自分もないわけだが)、それはもう悟りだ。

 

しかし、ここまでくるとなかなかそれってつまりどういうことなのか、というのは難しい。

でも当たり前だ。そんなに簡単に悟れるわけがない。

 

また続きを書けたらエントリーで考えてみたい。