勉強は、筋トレだ。あるいは学校教育の保守性について。

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この記事を読みました。

まあ確かに、古文・漢文なんか実学としては必要ないですよね。

でも、それを言いだしたら学校の勉強なんか、社会に出てからの実用性とか実学という点でいえばほとんど全て不必要ですよね。

 

この増田記事へのコメントにも英語や数学も不要だというものがあって、増田氏は「少なくともおれは使っている」、そしてここでは古文漢文の話をしているのだから話をすり替えるな、と返しているけれども、それでもやっぱり、数学なんか特に必要ない。

高校の数学を実生活で使ってる人なんか、日本全体で見たらほぼ皆無といってもいいはずです。

英語だって、はっきり言ってほぼ使ってない人が大半だと思います。日本で生きていく上でほぼ必要ないですから。多少でも知っていた方が便利だろうし、単語レベルでなら知識として役立ってもいるだろうけれども、しかしやはり英語を読んだり話したりできなくても生活上困ることなんか日本ではない。じゃあ特にいらないじゃないですか。

地歴などもそうですよね。教養は大切だと私も思うけれども、日本史や世界史の知識なんかなくたって特に困らない。ということは、普段の生活では使ってない。うっすらとは使ってるのかもしれないけれども、しかし、高校や大学受験のときに覚えた日本史・世界史の知識って、今となってはほとんど忘れてますよね、みんな。ということは今はほぼ使ってないってことなんですよね。人間使ってないことは忘れますから。

そうやっていくと、言い方次第、考え方次第では、学校の勉強なんかほぼ全て不必要だと言えるものばっかりなんですよね。極論、全部別に不必要じゃんと言えてしまう。

 

結局、古文漢文は不必要だ、でも、この教科のこの部分は必要だ、なんていう線引きは、個人の主観に依らざるを得ないんですよね。みんなに必要なことなんてない。

 

じゃあ学校の勉強って何のためにするんだろう。

私は頭の筋トレだと思っています。楽しく生きるための筋トレです。あるいはストレッチとか、トレーニングとか。

運動神経の悪い人でも、筋トレしたり走ったり色んなスポーツをしたりトレーニングをしたりしたら、その人なりには動けるようになって能力が上がっていくのと同じで、頭もきっとやっぱりトレーニングしないと動きはよくならないのだと思います。思いますっていうか、どう考えたってそうです。

学校の勉強知識自体を社会で使うか使わないかなんか本質的な問題じゃなくて、学校という場で頭の筋トレやトレーニングをすることに意味がある。

プロスポーツ選手になる人なんか実際にはほとんどいなくて、社会に出たらスポーツ能力を使うこともあまりないんだから、子供の頃にスポーツをすることに意味ないよ、使わないんだから、っていうのはナンセンスで、どういうものから何を学ぶかや、何によってどういう風に伸びるかは人それぞれで事前には予想できないし、やっぱり色々な機会を通して身体運用が上手になっているほうが、実生活でも便利なのは確かです。身体の使い方がうまい人のほうが、楽しめることは多い。

頭も同じことで、頭の使い方がうまい人のほうが、人生において楽しめることが多いのです。

社会に出たらまあ身体の使い方の巧拙で何かが決まるという場面はあまりないけれども、しかし頭の使い方というのはもうスーパーで何を買うかとかいうレベルから人生のすべてに関わってくるわけで、頭の使い方が下手であるよりも、上手であるほうが生きやすく、楽しいのは間違いありません。

そのために勉強をするのです。

 

じゃあここでいう頭の使い方が上手いとか下手とかいうのは、一体どういう意味で何を指すのかと言われると、そんなことはもちろん決められません。一体何が「良い」「悪い」のかというのは、一概には分からない。どうしたらそれに近づけるかというのも、人によっても違うでしょう。

だから色んな教科、色んなトレーニング法で鍛える。

どのようなトレーニング方法で自分の力があがるかは分かりません。

だからそれ自体は使わなくても、多様なトレーニング種目が用意されていることに意味があるのです。

もちろん、身体運用を上手にしていくためのトレーニング種目として、たとえばカバディが含まれるべきなのか、もっと他によい種目があるのではないか、そういう議論はあり得ると思いますし、この増田氏の意見もこれに類するものでしょう。

しかし、そんなことを言いだしたら、万人に用意するトレーニング種目として何が最適なのかというのは、簡単には決められないので、なかなか答えが出ないんですね。

そもそも、様々な種目や角度のトレーニングが用意されていることが大切なのであって、それが実際に使えるかどうかは大した問題ではないわけなのですから、言ってしまえば何だっていいわけなんですね。何だっていいんだから、実際に使わないからというのは古文・漢文を外す理由にはならない。他の何かを代わりにもってきたって、どうせそれも社会に出たらあまり使わないんだろうから。

みんなに役立つものなんかほぼないんだから、みんなに役立つものという観点で選んでいったら、ほぼ何も残らないんですよ。だから学校の科目なんか何だっていい。

何だっていいから、できるだけ昔からあるものそのままでいんです。

教育というのは、国レベルでみて数十年とか100年とかでみないとうまくいったかいかなかったかという本当の判断はできないものなわけで、猫の目のようにその時その時よさそうだからとコロコロ内容を変えていくべきものではない。だから昔からあるものをゆっくりゆっくり変えていくくらいでちょうどいい。その時の為政者の主観で教育内容がどんどん変わっていたら、それこそ早晩教育は破たんするでしょう。

だからゆっくりゆっくり時代の流れで古文漢文がなくなっていかない限りは、昔からあるのだからという理由で古文漢文が受験科目にも組み込まれているのはそれでよいのです。

今でも私大の入試なんかからは漢文はほぼなくなっているわけで、漢文はそのうち消えていくかもしれません。でも古文はどこでもほぼ課されているわけで、古文はしばらくはまだまだ残るでしょう。100年後とか200年後とかはどうか知りませんが。でも学校教育というのはそれでよいと思います。