自分という玉ねぎをはぐ

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昨日のこのエントリーについてなんだけど、じゃあどうしたらいいのか。

あるいは禅的にみるとどういうことなのかというと、やっぱりこれは相手に期待しないこと、そのままを認めること、簡単に言うとこれしかないと思う。

 

やっぱり相手の行動に苛立つとかがっかりするというのは、相手が自分の思い通りになっていないから。こうあるべきだ、という自分の「思い通り」「思い込み」を相手にあてはめているから怒りや失望がわく。

「自分の思い通り」にこだわるな、というのが仏教ですから、仏教の処方箋からすれば、相手は相手でいいじゃないか、とこういうことになる。そうなるしかない。

 

だから昨日の文脈から言うと、思い通りにならない自分に対して(たとえば女性が)怒ってきたとしたら、その怒りはその怒りで認めて受け入れて肯定してあげるしかない。そんなことで怒るなよ、と言ってしまったとしたらこれはこれでまたこちらも自分の思い通りや尺度を相手にあてはめていることになってしまうわけだから。

相手に怒りがあるなら、それはもう現に怒りがあるわけなのだから、それはそれでよいのだ。その現実を認めるしかない。それはそれで現実の在り方としては肯定したらよい。

相手が怒っている。それはそれで正しいのだ。じゃあそれに対してどうしたらいいか、一緒に考えましょう、というのが、ある意味では慈悲なのだろう。

相手本位。自分の比重が小さくなる。最終的には自分がなくなるところを禅は目指しているのだから、それでよいのだ。

それだと全部相手の意見ばかりが通るじゃないか、ということにもなるが、それはそれでよいのだ。自分を通すということにこだわらない。自分にこだわらない。

それが禅なのだ。

しかし、そうやっていくとその場その場で全部周りにあわせてまわり次第ということにもなりかねず、そうなると一貫性のない、まったく自分という筋が一本通らない、ある意味ではいい加減な、ある意味では八方美人なということになって、それによって齟齬が生じて問題が起きたりするということにもなる。

これはこれで困った。

どうすればよいのか。

その答えは私にもまだ分からない。

たぶん自分を無くしつつ、それでいて自分で行動をしっかり選択できる、そういう矛盾した振る舞いを同時にできなければならないのだろうけれど、それってどういうことなのか、どうしたらできるのか、私にはまだ分かりません。

でも、「自分」というものを小さくすれば無用なトラブルは少なくなるということは間違いなく言えると思います。無駄な形で持っている「自分」あるいは「自分へのこだわり」を上手に捨てることが必要だということは、おそらく言えると思います。

 

上手に自分という玉ねぎを剥ぐという感じで。でもちゃんと芯はあるみたいな。 

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