「空」とは何か? ④

7 禅を著すことについて

  しかしここで私たちも改めて考え込むことになる。確かに理屈の上では何となく分かった(気がする)。でもそれでは、一体「空」をどのように「この私」に適用すればいいのだろうか?

「旅人と鬼」のお坊さんは、答えを知っているように見える。「無常」や「無我」や「縁起」を「私」にもあてはめた境地で生きているらしい。つまり悟っているのだろう。それは、どのような境地なのだろうか。

 残念ながら、しかし、このお坊さんは河合隼雄さんが紹介している以上のことは語ってくれていない。同じように古来数多くの禅僧が、何も語らずに静かに去っていった。ただひっそりと生き、何も残さなかったということこそが、彼ら名も無き禅僧の達した深遠な境地の証左なのではないかと私は思う。彼らはまさに不立文字の禅を生き、師から弟子へと教化別伝で禅を伝えてきたのだ。だから今も日本でも脈々と仏教を受け継ぐ僧の方々がいらっしゃって、修行をされている。これは本当にすごいことだと思う。

 そういう意味では、私のような者がこのように禅を言葉で説明するというのは、大変不遜なことであり、ごく控えめに言っても、外道以外の何ものでもない。鎌倉時代から室町時代を生きた日本でも屈指の高僧、夢窓国師が『夢中問答』を著した際でさえ、禅を書きあらわすことへの批判があった。生涯を仏門に捧げ禅を極めた偉大な僧でさえそうなのだ。まして私など出家者でもなければ師について学んだこともない。このブログを読んでいただければすぐに分かる通り、欲得にまみれ、来る日も来る日もどうでもよいことにオロオロ右往左往している浅学非才の身である。禅について何かを知っているわけがない。

 しかし幸いにして、その夢窓国師をはじめ、歴史上には禅について書き残してくれた人たちがいる。道元禅師のように、『正法眼蔵』という、これまでに日本語で書かれた哲学書・思想書の中でも最高峰に位置づけてもよいほどの書物を残してくれた人もいる。一休や良寛のように自らの境地を歌に詠んだり、その生き様が伝えられている人たちもいる。私たちは、彼らから学ぶことができる。これは大変にありがたいことだ。世の中のほとんどの人は、出家してお寺で修行したりするわけにはなかなかいかない。

 そしてソシュールのように、禅とは直接関係のない人からも学べることはある。このように時代も場所も問わない様々な思想をふまえ、私たちには、私たちが今学べる禅というものがあるのではないだろうか。在家者の立場から、ある意味では思い切ってそういった禅について考えてみてもよいのではないかと私は思う。何より自分自身、言葉にして書いてみないと何事もどうにもうまく理解ができない。困ったものだけれど、そのようにしか生きられないのだから仕方がない。だからこのようなブログが一つあることへのご海容とご批判を乞いながら、あえて書くという次第なのである。

 

8 一休宗純とポストモダン

  では最後に、仏教はニヒリズムなのかということについて考えて一度終わりとしたい。

 室町時代の禅僧、一休宗純にはこんな逸話が残っている。あるとき村の人妻が一休の部屋に招かれた。夜そこへ行ってみると、一休は性的な誘いをかけてきた。彼女は驚き、怒り、部屋を飛び出すと家へ帰って夫に訴えた。仏教の名のある僧ともあろう者が、何という堕落した行いをするのか、と。しかし夫は逆に妻をたしなめ、今すぐ戻って求めに応じるようにと言った。一休宗純といえば、人々から生き仏とあがめられている尊い人物だ。かの一休宗純に求められたとあれば、こんなにありがたい話はない。すぐに戻ってお仕え申し上げろという言い分だ。妻は再び一休のもとへ向かった。しかし会ってみると一休は、もうその気はなくなったということであっさり妻を追い返してしまったという。

 一休といえば昔から、気の利いたとんちで人々をあっと言わせる少年として、アニメなどでも親しまれてきた。「このはしわたるべからず」という橋の立て札に困っている人を尻目に、端は渡っていませんと堂々と真ん中を歩くといったエピソードはおなじみだ。その「一休さん」のモデルになった一休宗純は実在の人物で、やはり数々の奇行で知られている。例えば正月早々、みんなが温かく明るい気分になっているときに、どくろを持ち、用心、用心などと言ってねり歩いたりしている。ちょっとした(というよりほとんど)狂人の趣さえあるが、彼は民衆から慕われ、またまさに禅を体現する人物として描かれてきたのだ。

 それはなぜなのかを考えたいのだが、とはいえ、この話には多くの方が眉を顰めるに違いない。端的に現代の道徳感情とは異なる上に、こんなものが禅の神髄だというのでは、あまりにも卑小で低俗だ。これ以上真面目に顧みる価値などないようにさえ思われるかもしれない。仏教や禅の描き方としてお怒りになる方もいらっしゃるかもしれない。

 しかし禅を原理的に考えるならば、この一休の姿は無視できないものなのだ。なぜなら全てが空だと言うことは、絶対的なものなど何もないということであり、つまり絶対的な正しさや真実などどこにもないということだからだ。要するにこれだけを見れば相対主義そのものであり、一つのニヒリズム(虚無主義)に限りなく近い。

 

9 「空」のまとめ

  ここでもう一度ここまでの内容をまとめておけば、一切が空であるとは、全てのものは関係性の中のある関係性だということを意味する。あらゆるものは言葉の上で仮にそう決めただけであり、また無数の相互依存関係、相互限定関係から仮に成り立っているということだ。これは仮和合と言い表せる。仏教がこの世界は仮そめの姿であるなどと言うときには、このような事況を指している。しかし注意したいのは、これは決して、この世は仮で本物の世界がどこかにあるとか、プラトンのイデア論のようにものごとには真の姿があるといった意味ではない。そのような超越性、彼岸性をこそ禅は否定し、空はまさに打ち破ろうとしているのだ。これは決定的に重要なポイントであり、しかし非常な困難を伴う。この問題について禅が(あるいは哲学が)どう格闘してきたかは、否定神学の問題ともあわせて考えていかなければならないだろう。

 とにかく、いわば空は一切を消滅させるのだ。決まった形、実体、絶対的なものなどはどこにもない。これをイメージとして描くならば、無数のネットワークや網の目になる。その網の一部分を切り取って、名付ければ、一つの形としてものになる。しかしそれは固定的、実体的ではなく、関係性そのものなのだ。網の目そのものなのだが、網の目はいくらでも組み変わるし、絶えず生成してくる。この生成するというのもまた現代哲学では重要なポイントで、やはり禅においても考えていかなければならないがここでは触れられない。押さえておきたいのは、ある実体がいくつもあってそれらが関係性をつくるのではなく、まずあるのは関係性であり、関係性だけであり、あとから仮のものとしてある「もの」が見出されるということだ。あるいは幻として嘘としてと言ってもいい。または、その場限りのものとしてとも言えるだろう。しかしそれは空なのだ。空、縁起、仮和合などはすべて同じ事況を指している。ある「もの」を解体する方向で捉えれば空になり、逆の方向で捉えれば縁起になる。縁って起こっている、仮に出来上がっているということになる。般若心経などでいう「色即是空、空即是色」とはこのことを指している。「色」とは要するに「もの」を意味する。ものは即ち空であり、空は即ちものであるということだ。

 

10 禅とポストモダンとニヒリズム

  ではこうして何も固定的でなく、何も絶対的でないとしていった場合、何が起こるだろうか。論理的な必然として、正しさや真実など何もないという状況に至らざるを得ない。これは私たちが生きるポストモダンという時代そのものだ。ポストモダンとは一九七〇年代以降にいわゆるフランス現代思想の文脈で使われた言葉で、実体や主体の喪失、「正しさ」の喪失、再帰性などが社会全体に広がった状態を指す。再帰性とは、簡単に言えばぐるぐるとまわって終わりも出口もないといった構造だ。例えば「この時代にはもう正しさや真実などない」と言った場合、それはそのまま矛盾として当の言説へと返ってくる。「絶対的な真実はない」というのも絶対的な真実ではないからだ。この再帰性はさまざまな文脈に見出すことができ、私たちの欲望もすでに再帰的になっている。私たちは他人が良いと判断することを織り込んで何かを良いと思い、他人から評価されることを意識して何かを評価したり欲しがったりする。しかしその他人の評価や判断も、また他人の評価や判断を取り込んでいて……という風にどこまで行っても終わりがない。これは今ではほとんど当たり前のことに近く、ポストモダンという言葉ももうあまり聞かない。しかしそれはポストモダンが終わったからではない。むしろわざわざ取り上げるまでもないほど自明になったからなのであって、その意味では私たちは今こそまさにポストモダンを生きていると言える。

 この再帰性は禅にとっても大変厄介な問題で、なぜなら禅は、一切は空であり、何ものも絶対視してはならない、と説くが、それならば一切は空であるという言説も絶対視してはならないことになるからだ。空はあらゆる固定化を消し去ろうとするが、「一切は空である」と言いきってしまえばそれ自体が固定化になってしまう。何も真実の姿ではなく実体ではないと言うつもりが、まるで空こそが真実の姿で実体であるかのようになってしまう。何ものにも執着するな、という教えを守ろうとすればするほど、その教えに執着していることになってしまう。どこまで行っても抜けられない。この無限後退をどうすればよいのかは禅僧たちにとっても大問題で、ここにこそ一休宗純の姿を見るべき理由がある。

 先取りして言えば、彼の姿は「執着しないことにすら執着しない」あり方として考えることができる。これこそが禅の考える一つの自由の境地だと言える。つまり、「一切が空であること」でさえ空にしてしまうこと。「無我を生きて何ものにも執着せず離れること」からも離れてしまうこと。そしてもしそれらを実践しようと思えば、おそらくもう空も執着も何もかも忘れてしまうしかないのではないか。もっと言えば自分というものさえ忘れてしまうしかないのではないか。しかし、ここには問題がある。まずそんなことは本当にあり得るのだろうか。また、私たちにとってそんなことは意味があるのだろうか? それは、ただ本能と欲望のままに(いわば動物として)生きることと何が違うのか。

 カントは、定言命法と言って、いついかなる状況でも絶対的に正しい倫理を人は考えなければならないし、またそういうものはあるとした。しかし今までのポストモダン的文脈に沿って言えば、そんなものはない。正しさなど国や文化や個々人によって違うのであって、絶対などないという相対主義はもはやいわば常識だ。だから、そんなものに従っているのはある一つの「作り話」の奴隷であるに過ぎないとも言える。では、そういうものを無視して、ただ思うがまま好き勝手に行動すれば「自由」なのだろうか。カントは、しかし、本能や欲望に従うことは決して自由ではないと考えた。なぜならそれは今度は、本能や欲望の奴隷になっていることと変わらないからだ。このカントの意見には、非常に説得力があるように思われる。

 もし絶対性や真理がないならば、道徳的正しさや普遍的な生きる指針も消え去ってしまう。それならば私たちは、もはや自殺をしようが人を殺そうが究極的には良いも悪いも言えないということなのだろうか。これは、結局のところ全てがどうでもよいというニヒリズムに他ならないのではないか。

 禅には、確かにこうした面がある。一切をごまかさずに見つめれば、それはもうおそらく否定し得ない。だからこそ古来、それこそ釈尊がインドで説いた当初から、仏教や禅にはニヒリズムであるという批判があった。ではもう顧みる価値などないのだろうか。しかし、ここからが本当のスタートなのだ。なぜなら、たとえ禅はニヒリズムに過ぎないと結論づけるとしても、それこそが今私たちの生きる時代そのものでもあるからだ。禅をニヒリズムであると切って捨てることはできても、私たちの時代を切り捨てておしまいにすることはできない。私たちはそこから先を生きなければならないし、その先を考えなければならない。ある人たちは全ての正しさなど相対化され尽くしたと考える一方で、別のある人たちはむしろ特定の価値への信奉を強め、またある人たちはそれでも普遍性を考えようとするこの世界で、今私たちはどのように生きればよいのか。これは極めてアクチュアルな問いであると同時に、禅もまたその先を考えてこなかったわけはないのだ。同じように哲学もその先を考え続けている。そして私には、その二つの地平はやはり近接しているように思われる。そもそも仏教は、慈悲もまた大きく押し出している。それは禅宗も同様で、例えば道元禅師も『正法眼蔵』で慈悲を説いている。この文脈にこそ私のテーマはある。確かに禅は、非常に冷徹に理知的に全てを解体してしまうように見える。しかし、本当にそれだけなのかということを考えたいのだ。もしそこに慈悲というものが宿るのなら、それは一体どういう理路においてなのか。そしてもし宗教も思想も哲学もひとまとめにしてそこに私たちが掬すべきものがあるとするなら、それはどういう理説になるのか。それを考えてみたいのだ。あるいはこれはあまりに思弁的で、かつ実証を欠いた試みであり、その意味では神秘的な宗教的言説や神話の類にしかならないのかもしれない。つまるところ私は禅について書いているのであって、結局は宗教論であるし、また宗教論に留まるべきであるとも思う。しかしそれでも同時に、できる限り理知的にその先を辿ってみたいのだ。そしてもしその結果「旅人と鬼」の説話や一休宗純の姿を少し違った感慨で見ることができるなら、あるいは、この世界を少し違った視点でもう一度眺めることができるのなら、この試みにはいくばくかの意味があるように思われるのだ。

 

 私に今書けるのはここまでであり、この先については分からない。

あまりにも読むべき本は多く考えるべきことは多い。死ぬまでに少しでも分かるのかどうか、それすらも分からない。

ただ、間違いなく仏教や禅はただのニヒリズムではなくその先を考えているし、私たちが生きるこの時代もポストモダンのその先を考えていくだろう、そしてその二つには通じるところがあるはずだというのは、直感として分かっている。