「空」とは何か? ③

5 「無常」「無我」「縁起」

  そして私たちもまた「関係性」のなかを生きている。関係性を離れては、私たちは何者にもなれない。
 たとえば「私は教師だ」と言おうとしたら、どうしても教える生徒がいてくれなければならない。もし誰も聞いている人がいない空っぽの部屋で、一人延々と熱弁をふるっている人がいたら、それは教師ではなくてただの「少し心配な人」になってしまうだろう。同じように「私は夫だ」と結婚せずに一人で言うことはできない。「夫である」ということは必ず「妻」に依存している。逆もまたしかりだ。「母親」にしても、どういう形であれ「〜の母親」という風にしか存在し得ない。「子」がいるから「母」になれる。「私は日本人だ」と言おうと思ったら、必ず世界に違う国籍の人が存在してくれていなければならない。もし世界中の人が全員日本人だったなら、区別がないのだからそれはもう日本人でも何人でもない、ただの人類だ。そして地球がもし人類しかいない星だったとしたら、それはもう「人類という生き物」ではなくてただの生き物だ。その「生き物」という概念も「生き物でないもの」に依存して、それとの比較・区別によってしか存在できない。
 つまり私たちがどのような形で自分を規定しようとも、必ず他のものを必要とする。その他のものもまた私たちを必要とし、さらに他のものを必要とする。全てはお互いに規定しあい、依存しあっている。この相互依存、相互限定関係のことを仏教では「縁起(えんぎ)」と表現した。縁(よ)って起こっている。何も単独では存在できない。まず関係性があり、関係性によって成り立っている、というわけだ。ソシュールの知見でみたように、決まった形はなく他との関係によって意味(価値)が変化するのなら、そこには単独での実体はない。そしてこの「単独での実体がない」ということを、仏教は「無我」と言った。ここでの「我」とは「私」のことではなく「もの」一般を指す。これに「無常」が加われば、「無常・無我・縁起」という仏教の基本アイデアが揃うことになる。
「無常」とは「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」(鴨長明)や「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」(平家物語)で私たち日本人にはおなじみのあの「無常」だ。全てのものはとどまることなく移りゆき、儚い、と聞けば確かにその通りだという気がする。桜の花びらが散っていく様子を見て、「ああ無常だ」などという心性を感じたりもする。しかし重要なのは、この「無常」もまた「ものには実体がない」という説明をしようとしていることだ。
 例えば水は冷凍庫に入れれば氷になるし、熱すれば水蒸気になって見えなくなる。ではこの「水」「氷」「水蒸気」のどれが「本当の姿(実体)」なのかと問われても、実際にはどれだとは言えない。確かに私たちの日常環境では水こそが「ふつうの姿」だから、「水が変化したものが氷」などと言うけれども、よく考えてみればこれはおかしい。極寒の惑星で考えてみれば氷こそが「ふつうの姿」なのだから、そこの異星人にとっては「氷が変化したものが水」という説明になるだろう。「水」とか「氷」とか「水蒸気」とかどれか一つをとって「これこそが実体である」という風には言えない。
「春が夏になる」という物言いも同様だ。夏になると言っても、よく考えてみれば、一体「何が」夏になっているのだろうか? 「春が夏になっているのだ」と言っても、その春とは冬が変化したもので、その冬とは秋が変化したもので、その秋とは夏が、その夏とは春が変化したもので……と続くだけで、結局春とは春が変化したものである、ということにしかならず、これでは何の説明にもならない。変化しているのは「季節」だよ、「季節」が夏になっているんだと言ってみても、その「季節」とは一体何なのかと問われたら困ってしまう。季節という「もの」がどこかに存在しているわけではない。ただ人間が「季節」という言葉で概念(アイデア)をつくっているだけだ。そもそも「春」「夏」「秋」「冬」というのは自然の移り変わりを勝手に人間が四つに区切っているだけで、実際にはどこにも「春というもの」や「夏というもの」といった実体はない。絶対に四つである必要すらないのだ。
 この概念(アイデア)をつくる、というのがつまりポイントで、「もの」とは要するに概念(アイデア)なのだ。そしてここまでみてきた通り、言葉、概念というものは関係性そのものなのであって、実体はない。
 つまり、私たちは名前をつけて、世界を言葉で切り取ることによって「もの」を認識するのだ。私たちが「ものがある」と言うときには、必ず言葉を使っている。言葉を使わずには「もの」は私たちの世界認識にとって存在し得ない。確かにたとえば手を触れたりして、身体で何かを感じることもできる。でもそれを「何に触れたか」と考えるときには、必ず名前をつけて言葉にして認識するほかない。だから言葉を使って考えるしかない以上、私たちにとって、「もの」とはすなわち言葉(概念)なのだ。しかしその言葉(概念)に実体はない。しかし私たちは、やはりその実体を持たない言葉(概念)によってしか「もの」を存在させられない。この事況を指して仏教は「無我」、そして「空」と言ったのだ。

 

6 「不立文字」と「空」

  全くこんがらがってくるようなことばかりを書いてしまっている。太字部分も多すぎるような気がする。くどいし、分かりづらい。私たちは出口のないループをぐるぐるとまわり続けているようにも思えてくる。分かったような、分からないような……。もっともらしいような、でもどこかがおかしいような……。

 しかしこうした感覚を味わうこと自体が、ある意味では「空」そのものだとも言える。それはまさに触れられない「空」に触れようとしている瞬間なのだ。つまり私たちは「言葉ではなかなか説明できないこと」をなんとかして言葉で理解しようとしているのだ。

 言葉で当の「言葉のおかしさ」を批判しきるなんて、どう考えても無理がある。「言葉には欠陥があるじゃないか」と言ってみても、「だったらそう言ってる君の言葉にも欠陥があるんだろう? それなのにどうやって欠陥を説明しきるんだい?」と返されたらとたんに苦しくなってしまう。

 現に禅では昔から「不立文字」と言って、本当のところは言葉にはできない、とされてきた。「教化別伝」として、言葉にしてしまってはどうしても示せないものがあると教えてきた。それは何も神秘主義というような意味ではなくて、私たち人間は言葉を使って世界を見ているのだということを、古くから禅僧たちも分かっていたのだ。その言葉自身を問題にし、言葉の限界を打ち破ろうとする以上、ふつうに言葉を使っていたのでは敵わない。だから禅仏教では、禅問答のようなわけの分からない言語活動をしてみたり、ひたすら坐禅を組んだりして、なんとか言葉では指せない境地に触れようとしてきたわけだ。

 このことをあともう一度だけ確認しておこう。ここに一本の木が立っているとする。「また木の話か」とどうか思わないでいただきたい。あなたはその幹に触れている。「もの」は確かに存在しているじゃないか、と私たちは思いたくなる。現に手で触れることができるのだから。それが存在しないだなんて馬鹿な話はない。でも禅はここには何もないと言う。何も実体がないと言うのだ。

 なぜか? なぜそんなわけの分からないことを言うのか?

 それは、私たちが言葉を使ってしまうからだ。ガサガサとした感触の幹に触れているときに、「あなたがいま触れているものは何ですか?」と聞かれたら、私たちはどう答えるだろう。 

 ものの名前を言うのだ。

「木です」と言うかもしれない。でもそれは本当に正解だろうか? 答えは別に「幹です」とか「樹皮です」などでも良いはずだ。むしろそのほうが正確だろう。それらは植物細胞でできているのだから、「植物細胞に触れています」とも言い添えておかないと本当に正確とは言えない。でももっと細かく割っていけば、植物細胞は分子でできていて、それは原子でできていて、原子はさらに原子核と電子でできていて、原子核は中性子と陽子でできていて、それらはさらにクォークやレプトンでできていて……と際限がない。だから本当に「ものそのもの」を指そうと思えば、「僕はいまクォークに触れています、クォークに」とでも言わなければならない。逆にカテゴリを大きくしていって「ブナ科の木に触れています」とか「落葉樹に触れています」とか「若木に触れています」とか「森に触れています」とか「自然に触れています」とか「生き物に触れています」とか「有機物に触れています」などと言うこともできる。そしてその全てが間違いなく正解なのだ。自分が触れているものそのものを本当に言おうと思ったら、無数に名前をつけて言い続けなければならない。そしてそれは原理的にできない。どこかで区切って、まとめなければならない。「これは一本のブナの木です」というように。でもそれは言葉の上で仮にそう決めただけで、「ものそのもの」ではない。別の切り取り方でもいいし、別のものにだってなり得る。「実体」を指したことにはならない。

 これは屁理屈ではない(たしかに多少は屁理屈みたいなものでもあるけれど)。このことは改めて次のように考えてみれば分かる。一本のブナの木から少しずつ葉をむしりとり、枝を一本ずつ切り落として、次に上から順番に樹皮を剥いで、さらに端から幹を徐々に切り刻んでいって……とした場合、どのような状態になったときにそれは「ブナの木」ではなくなるのだろうか。何が残っているときに「ブナの木」と言えて、何を失った瞬間にブナの木でなくなったと言えるだろう。

 土から引っこ抜いてバラバラにしたらもうブナの木ではなくなってしまうのだろうか。しかし樹皮の一部分だけがあったって、それをブナと呼ぶこともできるだろう。でもその中から植物細胞を一つ、あるいは分子を一つ取り出したからと言って、誰もそれをブナとは呼ばないだろう。では「どういうまとまり」が「ブナの木」なのか。

 これこそが、私たちが言葉を使うという事況なのだ。つまるところ言葉という「概念」で「まとまり」をつくってそれを「もの」だと言っているのだ。しかしどういう名前をつけようとも、それはその「ものそのもの」ではない。「ものそのもの」には触れられない。「ものそのもの」は言えないし、その意味で「ものそのもの」は無いとも言える。だから仏教は「無我」と言う。「もの」は「空っぽ」だと言う。無数に名前をつけられるのだとしたら、どの名前も正解であるのと同時にどの名前も嘘(空っぽ)でしかない。言葉では表しきれない。だから「不立文字」と言う。

 つまり「何も存在しない」という言い方は正確ではない。「空」とは「何も存在しない」という意味ではない。確かに何かは存在しているのだ。そう言うこともできる。しかしそう言うためにもやはり結局言葉を使わなければならない。そして「何が」存在しているのかという段になると、「〇〇があります」という一つの言い方をするしかない。結局それはある極めて限定された事実としての「もの」、あるいは嘘なのだ。

 だからこれを言葉で示そうとすれば、「あるとも言えないし、ないとも言えない。あるし、かつない」というまさに禅問答のような言い方をするしかなくなってしまうというわけだ。

 そしてもうお分かりのように、「ブナの木」を少しずつ解体していった場合「ブナの木」はどこまで「ブナの木」なのかという例は、「旅人と鬼」で旅人が悩んでしまった問いと同型だ。私たちは一周まわって元の場所に帰ってきたのだ。旅人は「空」について知らなかったから、深く悩んでしまったというわけだ。