「空」とは何か? ②

3 ソシュールの言語理論

 「空」を理解するために、ここで私たちは少し遠まわりをしてみよう。あるいはこれはショートカットでもある。教えを請うのはソシュールだ。なぜなら彼の言語理論は、補助線という以上に「空」を明晰に説明してくれるからだ。
 フェルディナン・ド・ソシュールは一八五七年にスイスのジュネーヴに生まれ、一九一三年に五十五歳で亡くなった。ソシュールの家には代々著名な学者が多くいて、彼自身も早くから学才を示して言語学を研究した。ジュネーヴ大学でほんの十人ほどの学生に向かって行った三回の講義が死後に本としてまとめられ、この『一般言語学講義』はのちの記号論や構造主義の起点になるなど、人類史に多大な影響を与えた。彼は晩年にはアナグラムの研究に没頭したりもしている。
 ソシュールの知見のうち私たちにとって最も重要なのは、「ものがあって、それに名前がついているのではない」という事実だ。どういうことかというと、私たちはともすると、四本脚で動きまわる白くてモコモコとした生き物がいて、それに「羊」という名前がついている、と考える。しかしソシュールは違うと言うのだ。むしろ逆だと言う。これは私たちの素朴な感覚とは大きく異なっており、それだけにこの解説においても大変重要なポイントになる。ソシュールが何を言おうとしているのかについて、私たちは「森」という言葉を例にして考えてみよう。
「森」という言葉が難しいのは、一体何本の木があれば森なのか、誰にも決められないというところにある。木が一本だけ立っている様子を森だとは誰も言わない。では十本では、百本では、五百本では、千本では、一万本では、十万本では、百万本ではどうだろうか。その線引きはどこにあるのだろう? 何が森なのか?
 そんなことはもちろん、聞かれても困ってしまう。答えられるはずもないし、結局「これは森だ」と言ったものが森なんじゃないか、と言いたくなる。そして実態はまさにその通りで、森だと名づけられたものが森なのである。木が集まっている様子を目にして、ある人は「林」だと受け取り、別の人は「森」だと受け取る。ある人にとっては「林」であるものが、別のある人にとっては「木立」かもしれない。こうしたことは当然起こり得る。それは、「林」や「木立」や「森」というものがあらかじめ実体として存在しているわけではないからだ。私たちが「木立」だと言えばそれは木立なのであり、私たちが「林」だと言えばそれは林なのだ。ただ地球上に自然に木が生えている様子を、人が勝手に「森」と名づけてまとめているから森というものがあるだけで、「森」という言葉がなければ、森は存在しない。ただ自然の姿があるだけだ。つまり「名前をつけることで概念(もの)が存在し始める」のだ。
 これだけでは何やら話がややこしいままなので、もう一つ例を考えることを許してもらいたい。”sibling”という英単語だ。
 これは日本語で言う「兄弟」と「姉妹」を合わせた意味を持っている。だから、「私にはa siblingがいます」と言われても、日本語にはできない。それが兄なのか弟なのか姉なのか妹なのか分からないからだ。「とにかくそういう存在」のことを英語では”a sibling”と指せる。同じように「あなたにはsiblingsがいますか?」という聞き方は、日本語ではできない。私たちも「あなたには兄弟はいますか?」という質問はするけれど、厳密にはこれは間違いだと言うこともできるだろう。なぜなら相手にいるのは「姉妹」かもしれないのだから。でも日本語には”sibling”という言葉はないのだから仕方がない。便宜的に「兄弟」と言っているだけだ。私たちにとっては”sibling”などというものは存在しない。少なくともそんな概念は意識しない。私たち日本語話者にとっては、この世界には「兄弟」か、または「姉妹」というものが存在するのであって、「それを両方あわせた存在」がどこかにいるのだという風には想像もしない。「私の家族には『両方あわせた存在』がいるんです」と言われたら、こちらとしてはただ困惑してしまうだろう。
 もし私たちが英語話者なら「何を言ってるの? もちろん『両方あわせた存在』というものがあるから、それに”a sibling”という名前がついているんでしょう?」と考えるかもしれない。でもこの考え方がおかしいのはもうすぐに分かる。ものがあるから名前がつくのではない。名前をつけるからものが生まれるのだ。名前をつけなければものは存在しない。存在しているのは、概念なのだ。
 このようにして、「ものがあり、それに名前がつく」という考え方は「言語名称目録観」と呼ばれ、ソシュール以後退けられた。

 

4 差異の体系

 ここまでの結論は、言い換えれば「言葉が世界をまとめる」、「言葉が世界を切り取る」ということになる。親族関係を「兄弟」「姉妹」と切り取ってまとめることもできれば、”siblings”とまとめることもできる。「姉」「妹」と切り取ることもできれば、年齢は関係ない”a sister”と切り取ることもできる。「姉」という言葉を使えば「姉」というもの(概念)が世界に存在し始め、”a sibling”という言葉を使えば”a sibling”というものが存在し始める。
 ソシュールは、私がここまでの説明で言ってきたような「言葉」や「名前」のことを「シニフィアン」と呼び、シニフィアンが指す内容あるいは概念のことを「シニフィエ」と呼んだ。シニフィアンとシニフィエは合わさって記号(「シーニュ」)になる。ソシュールは、言語とはこの記号の体系であるとしたわけだ。
 さて、それでは私たちはここまでの話をさらに進めて、ソシュールからもう一つ極めて重要な知見を学んでおきたい。それは「大きい人は存在するのか?」という問題だ。
 もちろん私たちのまわりにも身長の高い人はいる。でもその人たちは本当に「大きい人」なのだろうか? 実はそうだとは言えない。なぜならたいていはNBAのバスケット・コートにでも行って2メートル超えの選手たちに囲まれれば、「小さい人」になってしまうからだ。そのNBAの選手にしても、仮に絶海の孤島で一人きりで育ったとしたら、そもそも自分が大きいのか小さいのかも分からないだろう。その場合、「大きい人」「小さい人」という概念自体が彼の頭には浮かばない。同様にもし全人類が同じ身長だったなら、当然「大きい人」も「小さい人」も存在しない。
 現実の世界には大きい人も小さい人もいるが、つまりそれらは決して単独では存在していないのだ。必ず「誰かとの比較」において存在している。同じ人が、比較次第で大きくなったり小さくなったりする。つまり「大きい人」というのは、「この人より大きい」という「違い」に支えられなければ存在できない。まわりがなければ存在できないのだ。他との関係、他との差異によってはじめて、あるものが「何であるか」は決まる。
 これは「林」と「森」の話と同じだ。林とは何かと聞かれても単独では言えない。答えようとするなら、「森ではないもの」が林で、「林ではないもの」が森ということになる。そんなの循環参照じゃないかと言いたくもなるが、言葉で世界を切り取るというのは、線引きをするということだ。だから必然的に「AはBではない」という言い方をするしかない。そういう区別の仕方をしていく他ない。木がたくさん生えている様子を「森」と「林」という二つの言葉で表しましょうということになれば、林より大きければ森だということになるし、森より小さければ林だということになる。言葉は他の言葉との関係(差異)において意味を持つ。だからそこに「木立」という三つ目の言葉も加えましょうということになれば、森より小さいだけでなく木立よりは大きいものが林だ、という風に、「林」という言葉の意味(価値)も変わる。言葉にはそれ自体に実体はない。
 大変ややこしい話になってしまっているけれども、これもまた私たちの素朴な感覚とは全く異なっているのだから、頭を抱えたくなるのも仕方がない。一つひとつの言葉に決まった形があって、それがテーブルに載って並んでくれていれば話は単純だ。でも言葉に決まった形はない。実体はない。言葉とは「関係性」そのものなのだ。語の関係性のなかに入れられて他を参照しないかぎり、「大きい人」や「林」が何を意味しているのかは決められない。しかし全く同じようにその「他の語」もまた他の語を参照し合っているのだ。だからどこまで行ってもきりがない。これだけは決まった形があるという言葉は存在しないのだ。ただたくさんの「差異」が存在しているとしか言えない。
 つまりある実体があらかじめいくつもあって、それらが集まって関係性をつくっているのではない。先にあるのはまず関係性なのだ。「実体」というものはないのだ、あるのは「関係性」(構造)なのだ、というこの考え方は人々を驚かせた。そしてこれはのちに構造主義という思想になって、様々な分野に広がっていくこととなった。ソシュールの示した知見は言語学だけにとどまらない、とても射程距離の長いものだったのだ。

 

第3回に続く。