仏教の「空(くう)」について語る4回。
1 旅人と鬼
まずは印象的な仏教説話から始めたい。
ある旅人が一軒家で一夜を明かすことになりました。
夜中に一匹の鬼が人間の死骸をかついで来ました。すぐ後にもう一匹の鬼が来て、その死骸は自分のものだと争いますが決着がつきません。
そこで二匹の鬼は旅人に判断を仰ぎました。
旅人が最初の鬼のものだと言うと、後から来た鬼は怒って旅人の手を体から引き抜きました。それを見た先の鬼は死骸の手を抜きとって代りにつけてくれました。他の鬼はますます怒り、もう一方の腕を引き抜くと、また先に来た鬼が死骸のを取ってつけてくれる。
こんなことをどんどんやっているうちに、旅人と死骸の体はすっかり入れ代ってしまいました。二匹の鬼はそうなると争うのをやめ、死骸を半分ずつ食べて行ってしまいました。
驚いたのは旅人です。自分の体は鬼に食われてしまったのですから、今生きている自分が、いったいほんとうの自分かどうかわからなくて困ってしまいます。
このお話は心理学者の河合隼雄が紹介しているもので、著書『ユング心理学と仏教』(岩波書店、二〇一〇)から引用した。河合さんは子どものときにこれを読み、強く印象に残っていたのだという。確かに一種不気味な話であり、でもどこか滑稽でもある。体が「すっかり入れ代って」しまったのだとしたら、自分は死骸そのものになっているわけなのに、まだこうして生きている。ではここにいる自分とは一体誰なのか。もとの旅人の自分なのか、それとももう自分は自分でないのか。旅人は困ってしまったというわけだ。
この話には続きがあるのだが、河合さんはどうしてもその結末が思い出せず、もとになった本(高倉輝『印度童話集』(アルス、一九二九))を持っている人を探し出して読んでみたのだという。再び引用する。
旅人は困って坊さんに相談しました。
坊さんは「あなたの体がなくなったのは、何も今に始まったことではないのです。いったい、人間のこの「われ」というものは、いろいろの要素が集まって仮にこの世に出来上がっただけのもので、愚かな人達はその「われ」に捉えられいろいろ苦しみもしますが、一度この「われ」というものが、ほんとうはどういうものかということがわかって見れば、そういう苦しみは一度になくなってしまうのです」。
河合さんはこの結末について「今読んでも深遠極まりない教えであり、子どものときに記憶に残らなかったのも当然です」と書いている。お坊さんの答えは、確かにちょっと読んだだけではよく意味が分からないものだ。もちろん古い説話だから物語的でもある。しかし私たちは今、自分の身体のうちで「どの部分が私か」などということを答えられるだろうか。そう考えるとここで設定されている問いはきわめてアクチュアルなことが分かる。
顔や臓器も含めて、身体のあらゆる部位を少しずつ順番に取りかえていった場合、何をどこまでならかえても自分でいられるのだろうか。何を取り替えたときに、自分は自分でなくなるのだろうか。
私たちはこの先、病気や怪我などにあって、身体の一部分や臓器を失ったり取り替えたりすることがあるかもしれない。また身体にしても顔にしても整形手術で変えることができる。そうでなくても年をとれば容姿は変わってくる。病気や事故で脳の一部だけが損なわれたり、動かなくなることもあり得る。そしていずれ脳も機能を部分的に新しくしたり取り替えたり、記憶を書き換えたりできるようになったとしたら、何が変わったときに私ではなくなると言えるだろうか。「私」とはどの部分、どの記憶、どの機能なのだろうか。その全てが分かちがたく一体となってはじめて私なのだろうか。でも爪を切ったからといって私が私でなくなったなどと騒ぐ人はいない。では腕や脚を半分切ったら私は私でなくなるのだろうか。大病を患って人生観が変われば私は別の私になるのだろうか。仮に脳を半分取り替えたとしたら、もう私とは言えないのではないか。ではその線引きはどこにあるのか。
「私」とは一体何なのか?
これは旅人が悩んでしまった問いと同じなのだ。
2 仏教の問題意識
旅人と鬼の説話は、まさに仏教の中心命題を衝いている。つまり仏教が問題にするのは「われ」ということなのだ。もし仏教が言っていることを一言であらわすなら、それは「私への執着を捨てなさい」ということになる。
今から二五〇〇年前ごろにヒマラヤ山脈南方のふもとで生まれた釈迦が説いたことの一つは、「一切皆苦」と表現できる。この世は全て苦であると言うのだ。ずいぶん悲観的な教えに聞こえるかもしれないけれど、ここでの「苦」とは「自分の思い通りにならないこと」を意味している。考えてみれば当たり前のことだ。この世は自分の思い通りにはならない。老いたくなくても年はとるし、なりたくなくても病気にもなる。人生が思い通りにならないことだらけだというのは、毎日の生活を送る私たちなら誰でも知っている。
その「私の思い通りにならないことを私の思い通りにしようとすること」を仏教では「執着」と呼び、「苦」と呼ぶ。「私の思い通り」に執着するから苦しくなる。それならば、どうすればいいのかという方向性も見えそうだ。執着を手放せばいいのだ。
仏教は面白いことに、しかし、「ではどうしたら執着を捨てられるか?」という方向には進まない。正確にはその問題へと向かってはいるのだが、仏教はここで「そもそも私というものは存在するのだろうか?」というラディカルな問いを考え始めるのだ。
「私の」と言うその「私」とは根本的に何なのか? 「私」と呼べるようなものは本当に存在しているのか? もし「私」というものがないのなら、「私の思い通り」などという物言い自体が成り立たなくなる。そもそも、「私」だけではなくて、実際には執着できるもの自体が何も存在していないのではないか? そのように考える。
そして仏教は「一切は存在しない」という結論を提出する。正確には「一切は空(くう)である」と言うのだ。ではその「空」とは何なのか?
ここで私たちは、大乗仏教の最重要概念である「空」に辿りついたことになる。
第2回へ続く。