なぜ人を殺してはいけないか、あるいは慈悲について

慈悲とは何かということを考えると、おそらく自然に働くものなんだろうなと思います。

作ろう作ろうと思うものではなく、頭で考えてやることでもなく、自然に出てくるものなのだろうと思います。

 

そんな風に慈悲とは何かと考えたときに思い出した話があって、社会学者の宮台真司さんの言説です。

宮台さんの「上から目線」の文体には少し辟易することもないではないのですが、とても印象的に残った洞察があって、それは「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いについてです。

どの本に書かれていたのかは忘れましたが、宮台さんは次のようなことを言っていました。

なぜ人を殺してはいけないのか。この質問を発されている時点で社会は負けているのだと。

かなりうろ覚えなのでその時読んだ私の解釈もたぶんに入っているかもしれませんが宮台さんの趣旨としては、この質問は本質的には、人を殺していいか悪いかという問題ではなくて、人を殺せるか殺せないかという問題なのだと。

つまり、こういう質問をそもそもできないような社会や関係性にもっていかなければならない。

 

どういうことかというと、自分の尊厳というのは、まわりの人がいてくれて持てるものです。そのことを知っているかということ。

自尊感情が持てている人間は、人間関係の中にいて、自分の尊厳のためにはまわりの人が必要だと知っている人です。まわりの人が大切だと身をもって分かっている。だから、その人たちを殺そうとは思わない。殺していいか悪いかという問題ではなく、殺せない。

人を殺すのがなぜいけないのかという理由を聞く人間は、まわりの人間を大切だと感じられていない。そういう関係の中になく、自分の尊厳のためには他者が必要だということを知らないから、そういう問いができる。そういう問いが出る状態にさせている時点で、そういう問いが出る時点で、すでに社会(あるいは社会学は)負けているんだと、だいたいこのような方向として私は読みました。

記憶で書いているので実際の宮台さん自身の論とはだいぶ違っているかもしれませんが。

 

とにかく、私にはこの言説は非常に印象に残りました。

確かにそういうものかもしれないと思いました。

私は人を殺してはいませんが、それは、殺してはいけない理由が答えられるからではありません。

殺す必要に迫られていないだけというのもありますが、確かに宮台さんが言うように、殺せないからです。

私が人を殺していないのは、いけないからではなく、できないのです。

つまりいいか悪いかではなく、できるかできないかだ。必要なのは、なぜいけないかという「理由」や「答え」を一生懸命考えることではない(どうせどんな答えを与えたところでこの種の質問を本当に発している人間は納得しないでしょう)。そうではなく、「できない」人間を増やすことが(そしてどうやったら増やせるかを考えることが)大事なのだ、宮台さんの意見はこういうものであったと思います。

私はこれは非常に重要な視点だと思います。

確かにその通りだ。

 

そして仏教的には、究極的に言ってしまえば、人を殺してはいけない理由は、ありません。

仏教を冒涜するなと怒る人もいらっしゃるかもしれませんが、原理的に、理論的にそうならざるを得ません。

少なくとも大乗仏教においては全てが「空」であり、絶対はありませんから、この空論を突き詰めていけば、絶対にいいこと、悪いことというのは存在しません。

釈尊自身が「自灯明」、自分の道は自分で照らせ、自分自身を拠り所とせよと言っています。続けて法灯明と言って、説かれた法にも言及していますが、これはむしろ釈尊の残した理法ばかりにとらわれず自分で生きよ、ということでもあり、そのために自灯明を先に持ってきています。

そして大乗仏教、なかんずく禅宗は、空論を突き詰めた結果開祖の釈尊自身さえ否定してしまう、そして釈尊自身を否定することこそが釈尊自身の言説であるというところにまで進んでしまったわけですから、これに照らせば、「こうしなければならない」「これだけは正しい」といった絶対の尺度や審級はないのです。

 

ひろさちやという著述家がいて、仏教や禅について広く人が読みやすい本をたくさん書いています。

そしてこの人は上記のようなことを噛み砕いて書き続けていった結果、ある時から、犯罪者が犯罪をして喜びを感じるなら、究極的にはそれは肯定されなければならない、仏教とはそういうものである、というようなことを書くようになりました。

もちろんこれは一般的な倫理感覚からいえば言語道断であり社会的にもまったく受け入れられるものではありません。

きちんと正当な修行をされている方や仏教研究をしている人からは、適当な不正確なことを書いている許されざる不届き者だとされているのかもしれません。

しかし、私は仏教の空論を本当に論理的に突き詰めていけば、ひろさちやさんの言っていることは最終的にはどうやってもやはり否定し得ないと思います。

ひろさちやさんは、もし仮に生まれてこのかた一切この世に楽しみがなく生きてきた人間が、人を殺すことが唯一最大の楽しみであり、人を殺すことこそが自分の生であり生き方だと言うならば、それは最終的には否定できない、それはそれで良いと言うしかない、というようなことを言っているわけです。これ以上ないほど過激な意見です。

しかし、少なくとも禅仏教には、理説としてこれを否定できるものは論理的にない。

生き方に絶対の答えがない以上、この生き方だけは間違っているなどということは言えないのです。

 

それは例えて言えば、宇宙に正しいあり方がないのと同じです。

「宇宙の正しいあり方」なんて誰にも決められません。もしこれが宇宙の正しいあり方だなどという人がいても、それはただの人間の都合であり、人間にとっての正しいあり方に過ぎないのであって、究極的に言えば正しい宇宙も間違った宇宙もありません。ただ宇宙があるだけです。

それと同じで、人を殺すことが自分の生き方なのだという人についても、究極的にはただそういう生き方があるということしか言えません。いくらまわりの人がそれは間違ってるとかだめだとか説いたところで、本人が、いや、これが自分にとって唯一の正しい生き方なのだと確信しきっていたら、その「正しさ」を究極的に否定する審級は、この宇宙にはどこにもない。

 

だからこそ、仏教は慈悲を説くのではないでしょうか。

禅宗も、慈悲を説くのではないでしょうか。

極めて理知的に哲学的に空や禅について書いた道元禅師も、慈悲を大切に説いている。

それは、宮台さんの言説と同じような方向で、人に人を殺させないために本当に必要なのは、あるいは人が人を殺せない理由は、殺してはいけないという禁止や、なぜいけないかとかいう答えを用意することではないからです。

そうではなく、そもそもそういう問いや答えを必要としない、殺すか殺さないではなく「殺せない」というあり方にしかないからなのではないでしょうか。

頭で考えるのではなく、そこに慈悲があるから、殺せない。禅仏教を突き詰めていけばそういうあり方でしかあり得ないと分かっていたからこそ、仏教も禅宗も、慈悲を説いてきたのではないか。

私が一昨日のエントリーで禅はどれだけ理知的で哲学的であろうと、やはり宗教だし、宗教であるべきだと書いたのは、このような理由からです。

仏教は、禅は、やはり慈悲を説くのです。というかそこに賭けるしかない。

そして私は例えば慈悲を説いた道元禅師を信じるし、慈悲というものは、きっとあるものだと信じるのです。

別に神を信じるわけでも地獄を信じるわけでもありませんが、慈悲を信じるのです。

そして、そこを目指して生きる。

そうであってこそ禅は倫理的であり得るし、人を導く宗教たり得ると思います。

慈悲というのは一体何なのか、それははっきりとは分からないけれども、自分の頭で一生懸命考えながら、そして少しずつ目指しながら、今日も生きる。

それが、私にとって禅という宗教なのです。