だから駄目なんだろうな

人と人とが分かり合うというのはやっぱり難しい。それぞれの感覚があり、それぞれの正しさがあるという考え方が当たり前になった今の世界では、余計にそうだと思います。

どちらかが正しいということはなく、どちらかが間違っているということもない。そういう事況はむしろ増えていると思います。

 

別にいいじゃないか、と手放すことはこだわりを捨てることです。

誰かの心を思い通りにしようとせず、別にそれはそれでいいじゃないかと手放すことはこだわりを捨てること、そこから離れることです。

相手と、自分という関係なら、自分がそうやってこっちの思いを手放せば済むことも多くあります。相手を受け入れる、または受け入れるまではしなくても、認めて手放すことはできる。

 

しかし当たり前の話ですが、それだけでは済まない話もたくさんある。

この人の思いも自分は手放す、この人の思いも自分は手放す、そうやっていくことは、自由にさせることでもあるけど、同時に無責任になることでもあり、気持ちを切っていくことにもなる。ある意味では。

 

それでそれぞれうまく好きにやってくれればいいけど、うまくいかなかったとき、傷ついてるとき、いがみあってるとき、感情的にしこりが出るとき、自分にとって抜き差しならない状況だとどうにかしなくちゃならない。

うまくいかないけど心を砕いてみる。

そうするとその人たちの気持ちにのみこまれて引っ張られて、まあそれでもいいんだろうけど、それがむしろ誠実に行動することなのかもしれないけど、そしてそれに耐えるだけの強さを持たなければいけないのかもしれないけれど、非常に苦しくなってくる。

まあその人たちも苦しいわけだから、自分もそうでなければならないのかもしれませんが。知らん顔はできないとすれば。

それが、責任ということなのでしょうか。

生きていくうちに色々な責任が、好むと好まざるとに関わらず自分のまわりに生まれてくるわけなので、責任が増えるというのは自由を失うということなのでしょうか。

そういう責任は、現実的には手放すことはできない。

 

しかしたとえ現実的には手放すことはできなくても、精神的に手放すことはできるはずだ。

別に出家して寺にこもらなくても、在家でこの世俗を生きながらも離れることはできるはずだ。

我執を手放しながら、しかし誠実に生きることは、できるはずだ。

人の気持ちをきちんと手放すことが、人の気持ちを切ることにつながらないということ。こだわりを捨てることが、慈悲につながるということ。そういうことは、あるはずだ。

 

何となく、ああやっぱり我執から離れることなんだろうなと思いました。今書いていて。

あの人の気持ちを手放すこと、この人の気持ちを手放すこと、それがもし、自分が面倒臭いということを意味しているのであれば、それは結局自分の都合を優先させた我執にすぎないのだ。

本当に我執から離れ、自分へのこだわりから離れれば、自分の都合を捨てて、その人たちの辛さや思いに本当に丁寧に寄り添った振る舞いができるのだろう。自分対相手の行動じゃなくて、その「場」への、全体への行動として。

それが利他業なんだろうな。

それが慈悲なのかもしれないな。

そういう理論なのかもしれないな。

書いていて何となく少し分かったような気がしました。

 

しかし、じゃあ翻って今の自分はどうすべきか、どうすべきだったのかとなると、具体的には分からない。

できる気もしない。

やっぱり、慈悲って難しい。

自分から離れるって難しい。

自分はしんどいよ、という思いが出てしまう。

だから、駄目なんだろうな。