ブログ生成論

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誰かの話を聞かされるとして、たとえば目の前に機械がありボタンが押され音声が再生されたとします。よほど面白い話であるか自分の興味に合っていない限りは、だんだんと苦痛になってくるでしょう。

校長先生や社長や政治家やお偉い方による挨拶・講話も、紋切り型の話であればあるほど退屈して、聞きたくもなくなってくる。

上司による酒場での説教や自慢話も、それが目新しさも何もない一般論だったり、何度目だよっていう再生話であればあるほど、うんざりしてきます。

これらの共通点は、ここにいる自分が聞くべき必然性がまったくないことです。

その人は聞き手が私でなくても同じ話をするでしょう。他の誰がここにいようとただ同じ話がなされるだけです。ここでは新しいものが何も生まれていない。だから退屈に感じるのです。

 

つまり人が面白いと感じるのは、新しい何かが生まれている瞬間です。今ここで生成されているものがあると、新鮮味があり、どうなるんだろうという興味もわく。

分かりきっていることをただ再生するのはつまらない。

 

これはブログも同じです。

昨日の「明日に投げる」ともつながりますが、先の見えないことを書き始めてみること、結末がまだないまま書いて考えてみること、まだよく分からないことをあえて書いてみることによって、生成されるものがあります。

全部自分でわかりきっていることをただなぞって書いているだけだと、ちょっとつまらない部分もあるし、作業になってくる部分もある。それを毎日やるだけだからブログを書くのがしんどくなるという面もあるのではないか。

 

全く知らず完全に見当もつかないことを書くのは無理だとしても、ちょっと分からないことを書いてみて、書きながら考えるのは楽しいものです。自分でも発見があり、時には考えが前に進めることもある。

いわば心を半開きにして書き始めるということです。

着地できるか分からない。でも書いてみる。書いてみて考える。

そしてブログが生成していく。

 

常に何か生成しているブログは、自分で書いていても面白い。

まず自分が生成する場を楽しめないと、と思います。