悟りとは「自由」のことである、あるいは、悟りの具現化としての自由ネコ師匠

 

アイム・パダワン

 

 皆さんはパダワンをご存知でしょうか。

「パダワン」は映画『スターウォーズ』の中の「弟子」のこと。

Yes, マスター、

I'm パダワン。

そのような気持ちであります。

 

自由ネコ師匠についてお書きしたところこのように記事にて言及していただきました。

gattolibero.hatenablog.com

 師に顧みていただく、パダワンとしてこれ以上の幸せがあるでしょうか。いや、ない(反語)。

 

迷を大悟するは諸仏なり

 

そのむかし道元禅師はこのようにおっしゃいました。

 

迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷するは衆生なり

道元

 

悟りを求めて迷うのが多くの人々である、

迷いこそが悟りであると悟るのが仏である、

ということです。

どういうことでしょうか?

 

悟りとは「自由」のことである

 

禅仏教における悟りとは、絶対的なものに何も頼らない、ということです。

「絶対」を絶対に持たない。

絶対的なものがない、定見がないということは、裏を返せば自由であるということです。何でもあり。つまり、「自由」ネコ。

 

つまりどういうことかと申しますと、「これが悟りである」と言っているうちは悟りではないということです。

なぜならば「これこそが悟りだ」と言った瞬間に、その悟りを絶対的な、実体的な、固定的なものとして絶対視していることになります。

それは悟りではありません。

何かを絶対視することは、悟りではない。何ものも絶対視しない、それが悟りです。

だから臨済禅師は「逢仏殺仏」と言いました。たとえ仏陀の教えですら、絶対視してはならない。仏を殺せ。釈尊自身がそのようにおっしゃっています。私の教えは捨てなければならない。

 

つまり、「悟った」人は悟った瞬間にそれを捨てている。「これが悟りだ」とはしない。

「これは悟りではない」「これも悟りではない」それが悟りである。

このことを指して道元禅師は「迷を大悟するは諸仏なり」とおっしゃったわけです。

 

では、どうしたらよいのか?

 

「悟り」というものがどこかにあると思い、その悟りを求めて迷い続けるのが私たち衆生です。

しかし悟りなどというものはどこにもない。そのことが分かっているのが仏です。それこそが悟りです。

以上のことをもって、道元禅師は「迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷するは衆生なり」とおっしゃいました。

 

理論的にはそうなります。頭ではわかった。

では、それは感覚的にはどういうことなのか。どういう風に実践として振る舞い、生きれば良いのか?

これは難問です。しかし、答えはあります。

 

見よ、自由ネコ師匠のお姿を!

 

冒頭の記事を読んでみてください。

これは常人の姿ではありません。

もし私がネコ師匠の立場だったら、きっとこう考えるでしょう。

「ムム、悟った、禅師だ、高僧のようだとずいぶん褒められているぞ。ここは『ヤッター!  悟ったみたい、禅師みたいと褒められたぞー』なんてはしゃいだらあまりに俗っぽくて恥ずかしいから、涼しい顔をして全然何とも思っていないふりをしとこう。その方が悟ったみたいでかっこいいしな」

とこう考えるのが俗人ですよ。

それがどうでしょう。

堂々たるハイテンションぶり。完全に遊んでおられる。

そう、遊んでおられるのです。

 

いいでしょうか、上記の私のように、「よし、悟った高尚なふりをして、知らん顔しておくぞ」とするのは、前回記事(はてな村の禅師、自由ネコ師匠、禅を語る。 - 禅ねずみ)の最後に書いた川の逸話で、女性を見ないようにして気にしないふりをしている弟子たちの振る舞いと同じなのです。

対してネコ師匠の振る舞いは、その逸話の中の禅僧と同じです。

まったく気にする様子がない。

こだわらない。

自由なのです。

自由に遊んでおられる。

これなのですよ。

迷を大悟する、それは自由に遊ぶこと、この自由ネコ師匠のお姿なのです。

 

やはり自由ネコ師匠は禅師だったんだ。

やっぱりそうだったんだ。

私は改めて感じ入り、深くこうべを垂れたのです。