はてな村の禅師、自由ネコ師匠、禅を語る。

gattolibero.hatenablog.com

私淑する自由ネコ師匠の上の記事を読み、感動しました。

だからこの記事はもう自分のためだけに書きます。自分のブログに「禅」カテゴリーで引用しておくのが一番簡単にすぐ見つけて読み返せるからです。

自分のために書くわけですから、これはもう乱文になることは間違いありません。感動した感情でそのまま書くわけですから仕方ありません。

そう、この自由ネコ師匠の記事はもうまるっきり禅の悟りの境地そのものなのです。

 

自由ネコ師匠は禅師だった

 こういう記事が読めるから、私は自由ネコ禅師のブログを読むことがやめられないのです。

そもそも、このような自由ネコ禅師に導かれて私はブログを始めました。

なんか自分がこんな雑記ブログ書いてる意味あるのかな、もういいかなと思う日があっても、自由ネコ禅師がいらっしゃるからやっぱりまた自分も雑記ブログを続けようと思う。

そうです、私はこんなことを思っている時点で、自由ネコ禅師の境地には到底ほど遠い。さまざまな「意味」や「欲得」や「こだわり」や何やかやにうもれまくっている。

我執のかたまりです。

それがどうだ。自由ネコ禅師のブログを読むと、すっと心が軽くなる。

ああそうだ、何もこだわる必要ないじゃないか、何をくだらない欲を出し自分を大きく見せようとし、消耗消耗の渦の中に飲み込まれていっているんだ、と思える。

こういうの自縄自縛というんじゃないか。自分で自分をどんどん縛って不自由にしている。これでは不自由ねずみではないか。

自由ネコ師匠のお姿を見よ。そうか、やっぱり、自由ネコ師匠は禅師だったんだ。

これが禅の境地ですよ、みなさん。

これからは禅師と呼ばせていただきます。

 

引用が全文引用になっちゃってできなかった

 もう感動して好きな文章を禅師のエントリーから引用して記事を書こうと思ったけど、そうしたらもうこれ全文じゃないか、記事丸ごとコピペして投稿するだけになるじゃないか、ということになっちゃった。

仕方ないから、記事のリンクを貼って自分のブログに「禅」のカテゴリーで投稿することにした。

だって、まさか本当に丸ごとコピペして自分のブログに投稿するわけにはいかないものね。でも、この記事は本当に禅そのものなんですもの。だから「禅」カテゴリーで保存しておくことにした。

この記事を書いたのはそのようなわけだったのです。

 

最高の自己肯定のあり方

 それにしても、何て素晴らしいんだろう

やったな、やり切ったな、っていう。

達成感にも似た、謎の感覚。

何もやってないんだけど。

もうこのあたりからして最高ですよね。笑っちゃった。

だって、おかしいじゃないですか。こんなこと言える人。ふつういないですよ。

何もやってないんかい、って突っ込みたくなりますよ。

ふつうだったら、ああ自分には何もできなかった、って敗北感にとらわれたり、不全感にとらわれたり、そこから自己否定にむかったり、卑屈になったり、世界に対して呪詛を吐いたりして、ルサンチマンの塊になるところですよ。そう、まさにこのルサンチマンっていうのは禅の正反対にあるものですよ。

自由ネコ師匠は全っ然そういうものにとらわれてない。何もやってないのに、本当にそれでいいと思っている。これは最強の自己肯定のあり方ですよ。

自由ネコ師匠も上のような敗北感や自己否定感やルサンチマンにとらわれたこともあったのかもしれない。いや、拝読する限り、おそらくそういう時期もあったのでしょう。

しかし、そこから自由になられた。自由ネコになられた。

これは、並大抵のことではない。本当にそこから自由になるということは、並大抵のことではない。

しかし自由ネコ師匠は本当に今はそれでいいと心底思っているように見える。だから禅師なのです。偉大な禅師です。

 

しかも、別に何かができるようになったからとかじゃないんです。何か努力して達成したからとか、乗り超えたから自分を肯定できるようになったとかじゃないんです。また重要なことに、ネコ禅師は特に今のご自分のことを有能だと思っている様子もないのです(失礼な弟子ですみません)。(注:私は弟子と称することを許されたことなど一切なく、自由ネコ師匠としてはまったく預かり知らないことでしょうが、「私淑」というのは元来勝手に一方的にするものであります)

自分が何かできるから、力があるから肯定しているんじゃない。別に何もしていないしできないんだけど、それで本当にいいと思っている。

これこそが最強の自己肯定のあり方ですよ。崩れようがない。何もないんだから。誰にも手出しすることはできない。どこからも自由ですよ。これこそが悟りの境地ですよ、みなさん。

 

しかもネコ禅師は自分は特に何もできないししていないと思っていらっしゃる。

でも、実際にはされているわけですよ。禅師の言葉を読んでたくさんの人がちょっと楽になったり、前向きになれたりしているわけです。これは本当にすごいことをしているわけです。

しかし、禅師はそれをもって自分はすごいことができる人間だとはまったく思っていない。

むしろご自分を敗戦処理投手だとおっしゃっている。これは謙遜でも卑屈でもなく、本当に何でもない存在だと思っておっしゃっているわけです。

だからこそ、禅師なんですよ。

これが、自分にこだわること、自分の名声や評判や力や思い通り、我執から自由になっている人のお姿なんです、みなさん。

自分を捨てることと、自分を肯定すること、この一見矛盾した二つの振る舞いを同時になさっている。

これが禅ですよ。

しかも特にそのために頑張ってない。自然体。

あるがまま。これこそが禅ですよ。

 

 今を生きる金太郎飴

 全然、不満が無いです。

毎日が自分史上過去最高の一日です。

 

人生のどこを切っても、その時点での過去最高。

「過去最高の金太郎飴」状態。

こんな気持ちで生きられたら、最高でしょ。

金を求め、名声を求め、女を求め、まあよく分かんないけど、あんまりにも定型的すぎるのかもしれないけど、とにかく何でもいいけど何かを求め自分の思い通りを求め、これが手に入ったらあれが手に入ったら、こうなったら、こうなりさえすれば、そういうのって、全部そうなったら不満がなくなるんだ、最高の人生最高の自分になれるんだ、そう思うからでしょう。

でもそう思ってどこまでいっても、どこまでいってもやっぱりまだまだ手に入らないもの思い通りにいかないものがあって、決して最高にはなれない。

なれても今度はそれを失うかもしれないし失ったときはもっと苦しくなる。それにこの世は諸行無常。一時期最高になったって、絶対に永遠にそれは続かない。

それがどうでしょう。

ネコ禅師を見てください。

「毎日が自分史上過去最高の一日です。」

なんてこった!

あなたは一体何を持ってるんですか。どんなにすごいものを持ってるんだろう。みんながそれを目指してるんだ!

ネコ禅師 「特に何も持ってない」

それなのに、むしろだからこそ、

どこをきっても過去最高の金太郎飴状態。

最高だ。

あるいはネコ禅師はこのように答えるでしょう。

「少しは持ってる。それで十分満足してる」

あるいは、このように答えられるかもしれない。

「お陰さまで、もう何でも持ってます(にっこり)」

もうここまできたら、禅問答ですね。

 

これが手に入れば、あれが手に入れば、これさえあれば、あれさえ持っていれば、そんな風に血眼になって毎日生きている私たち凡夫からすれば、ひっくり返ってしまいますよ。

自由ネコ禅師、あなたは一体何を持ってるっていうんだ!

自由ネコ禅師は、何も持ってないんですね。欲を持ってない。というか、そういうものを手放している。そう、手放してしまっているんですね。

だから、満ち足りている。

だから毎日が過去最高の金太郎飴状態。

今を生きてる。

今を肯定してる。

これが禅でなくして何でありましょう。

 

さっきから禅、禅うるさいですね。自由ネコ師匠からすれば何が禅か、禅かどうかなど、どうでもいいことでしょう。

私のようにこれは禅かとかこのあり方はどうかとかこれはいいか悪いかとかそういう風にごちゃごちゃ考えている時点で、だめなんですね。

禅師の高笑いですべて吹き飛んでしまいます。

そう、そんなの全部どうだっていいんだから。

 

どうでもいいんだ

 長々と自分の話をして申し訳なかったですけど、ようするにね、どうでもいいんですよ。

ああ、もうこの禅師の言葉につきますね。

そうです、どうでもいい、どのようでもいいのです。

 

「生きがいはあったほうがいいのか」と問う相談者に対して、ネコ老師は「生きがいなんてなくていいんだよ」とは答えません。

「生きがいが無ければダメだ」

とか

「生きがいは有った方がいい」

とか

そういう思い込みを捨てたら、楽になると思います。

捨てていけ、捨てていけ、とそう言います。

どうやって生きてもいいんですよ。気楽にいきましょう。

 そうなんだな。本当にそうなんだ。

 

そして、お菓子とかジュースとか、たまに欲しくなった時には買って食べていると言います。これがまたいい。

いいでしょうか、これがまた良いのです。

つまり、欲を捨てる、そのことすら捨てている。

欲を捨てる、ということにすら、こだわらない。

欲にとらわれないのと同様に、欲を捨てることにもとらわれない。これこそ自由、自由ネコ禅師の真骨頂であります。

そしてそうでありながら、非常に慎ましいあり方で自然にいられ、決して欲が暴走しない。これが悟りの境地でなくして何でありましょう。

 

その上で、ネコ禅師は背負うことについて語られます。自分と対話せよ、身の程を知れ。

そしてご自身についてこのように言われるのです。

ちなみに私は、

自分がどれだけの荷物を背負えるのか、散々自問自答した結果、恐ろしいことに気づいてしまいました。

自分は…荷物を背負うためのリュックサックを持っていなかったw

手ぶらですよ。手ぶら。

何ひとつ、背負うことができなかった。

これは本当にちょっと参っちゃったけど、まぁ背負えないんだからしょうがない。

私はこれを読んで、ある禅僧の逸話を思い出しました。関係ないかな? ないかもしれない。でもそれはこんな逸話です。

 

ある高名な禅僧が弟子を引き連れて旅をしていたときのこと、とある川にさしかかりました。

川の岸辺では一人の若い女性がいて、一人では川を渡れそうにないと困っていました。

一人の魅力的な、若い女の子です。

仏教では色欲はもちろん厳禁。そんな女の子に近づいたり触ったりなんて煩悩のあらわれ、もってのほかです。色欲にとらわれない禅僧たるもの、そんな若い女には涼しい顔で目もくれないのが一番です。

ところがその禅の師匠、ひょいと女性を抱えて背負うと、さっさと川を渡ってしまいました。

一行はそのまま先へと進んでいったわけですが、納得できないのは弟子たちです。女性や色欲厳禁でやってきたはずなのに、師匠がすすんで女性に触れて背負った。これはどういうわけなのか。しばらくたってからこらえきれず質問した弟子にむかって、師匠はこういいました。

「お前はまだ彼女を背負っておったのか」

そうです。もうその女性はどこにもいません。川の場所でもとらわれ、川を渡ってもうずいぶん歩いているのにいつまでも彼女にこだわって、女性を背負っていたのは弟子たちのほうだったのです。師匠は女性を背負っていましたが、背負っていなかったのです。

 

自由ネコ師匠の姿は、私にその禅師の姿を思い起こさせました。

これぞまさに、id:gattolibero、自由・ネコであります。

自由ネコ禅師、ありがとうございます。

感謝をこめて。

合掌。