私のpunctuality

絶対に家を出る予定時間に遅れる問題ってあるじゃないですか。
あれは何なんでしょうね。
たとえば13時に出るぞーと思っていても、絶対13時10分とかになるんですね。13時になったとき、「あ、もうあとこれとこれだけしたら出られるから」ってなってて、それをしたら10分くらいたってて。結局13時10分とか、15分とか。ひどいときは、「あ、ちょっとお腹痛い、トイレ」とかなって13時半近くになってたりとか。勘弁してくれよって。


だから仕方ないから13時に出たいときは、出発時間は12時50分だぞって自分に言い聞かせるんだけど、やっぱり自分は「本当は13時に出たらいいんだろ」って知ってるからなかなか言うこと聞いてはくれないんですよ。


だから仕方ないから、たとえば電車なら十分余裕をもって目的地につける電車の、さらに1、2本前の電車を最終ラインのつもりで設定し、その電車に余裕で間に合う出発時間の、さらに10分くらい前を家を出る最終ラインに設定して、さらにその10分前が家を出る時間だぞって自分に言い聞かせるという、二重、三重のトラップをしかけることによって私のpunctualityは保たれている。


しかしこの戦略には致命的な弱点があって、それは上記のように、さらに、のさらに、のさらにのさらにと重ねていくと、30分くらいで行けるはずのところが家を出る予定時間は1時間半前とかになってて、ふと冷静になって「ほんとかよ、何でこんな時間に出なきゃいけねぇんだよ」って自分が気が付いてしまうことなんですね。
こうなるともういけない。
どう考えたってあと1時間くらいは余裕あるだろとギリギリ実際の最終時間を調べはじめたりして、するともうそこにぴったりと意識の照準があってしまいます。

こうなると遅刻は不可避です。何とか手を打たなければならない。

 

そこでもう一度交渉が行われることになり、「分かった、悪かった、1時間は言いすぎた。しかし20分くらいはどうだろう。どうせ思ったより遅れるに決まってるんだから、絶対に20分くらいは余裕を見るべきだ、それくらいは必要なはずだ」「まあ、20分ならいいだろう」という妥協案が採用されるのですが、結局当日には余裕ぶんだと分かっているその20分は何だかんだと消費され、現地の約束にはなんとかギリギリ走って間に合うといった有様になるのです。

 

だから最近では間に合う最終時間をあえて一切調べないという、調べることを自分に禁ずるという極めてストイックな戦略も採用されています。

実際どれくらいの時間がかかるか正確に分からない。その恐怖によっていやが上にもかなり余裕を持った出発時間にならざるを得ないのです。これはある意味gut feelingというか、自分の腹時計で勝負というような人間の太古からの本能に立ち返った力強い生存戦略です。

 

都会のジャングルの中にも人間の動物としての本能は息づいている。

 

私は学生の頃、この試験を受けそびれると致命的な単位落第につながるという日の前夜から眠らず飲んで遊び呆け、明け方に泥のようにベッドへ倒れ入眠したにもかかわらず、たった数時間で不思議な感覚に導かれて敢然と目覚まし、アラームもなく起き上がり、時計を見たところまさにちょうど家を出るべきギリギリの最終時刻となっており、奇跡的な速度で身支度をして大学へ滑り込み、無事受験を果たしたという経験があります。

その経験は確かな糧となって今の私を支えています。多くの人が似たような経験をお持ちのはずです。人が大学で学べる最も大切なことの一つと言ってよいでしょう。

 

とにかく、自分を欺くのはかくも難しい。私のpunctualityは常にこのような危ういバランスの上に成り立っているのです。

 

しかし、一体私は何を書いているのでしょうか。

本当は、家を出る時間すらなかなか思い通りにならなくて遅れるのに、人生の目標などイメージ通りに運ぶはずがない、だから生きていてうまくいかなくたって、それで嫌にならずに、だめだと思わずに、家を出る時間だって遅れるくらいなんだからと少し気持ちに余裕をもって諦めずに歩んでいくことが大切なのではないかという、もっと心温まる考察を書きたかったのですが、どこで間違ってしまったのでしょうか。

おそらく一文目からでしょう。

 

でもこうして書くはずだったことが書けず、書くつもりのなかったことを書いてしまうという、それが書くことの一番の楽しさですよね。

以上、私のpunctualityでした。