自分に主人公感がなくなってくること、あるいは悟りについて。

昨日はてブを見ていたら下記のtogetterが上がっていて、とてもいいなと思った。

 

togetter.com

 

「自分に主人公感がなくなってくる」

これは非常に禅的で良いなぁと思いました。

 

禅には「主人公」という禅語がちゃんとあって、これはまた深い意味を持っています。ですがとりあえずそれは置いておくとしても、このtogetterの「自分に主人公感がなくなる」というのはまさに禅です。禅仏教はこれを目指せと教えていると言っても決して過言ではありません。

 

自分に主人公感がなくなるというのは、自分への執着が少なくなるということです。

自分に主人公感が完全になくなったら、悟ったと言ってもよい。

 

それはどういうことかというと、今あたりを見まわすと、色々なものがあってここにいるわけですが、そのときに、「自分が」ここにいるのではない、ということ。

「自分が」ここにいるとは感じない。

強いていうなら、「自分も」ここにいる、ということ。

ここにあるのはまず「自分」ではなくて、この世界なのです。この机だったり、この部屋だったり、この空気だったり、この人であったり、あの人であったり、この風だったり、まずこの世界、この場所があるのであって、自分はその中の1つに過ぎない。

自分が中心にいない。

視点が自分にない。

だから自分の都合や自分の思いにとらわれることがない。自分がどうだというのは関係ない。そこにあるのはその場であって、自分ではない。自分があるとしても、ただその中の一要素でしかない。だから自分の執着にとらわれる必要がない。

自分がいなければ、自分の執着や都合もありません。

そこにあるのはただその場所、もっといえば、ただ世界があるというか、今ここという瞬間があるだけです。

どこにも中心となるものはなく、確固たる足場や確固として依って立つものもない。ただいつも今があるだけであり、今を構成する様々なもの(机や風や人や音やこの瞬間にあるもの)があるだけです。自分も「今」の一部でしかなく、もっと言えば自分を構成する全ての要素、手足や髪の毛や水分や思いや思考や神経細胞も、そのへんに今ある机やプラスチックや酸素などといった無数のものと全く同じようにあるだけです。それを「自分」という風にまとめているから「自分」があるだけであって、ばらしてしまえばまわりに他にもある無数の世界の構成要素と変わらない。

つまり、ここにはただ世界があるだけであり、今ここがあるだけである。

完全にそのように悟れたら、もはや自分はどこにも存在しません。執着するべき自分も、自分の思いもない。ただ世界があるだけです。そうなれば、もうあるがままがあるだけです。

だから禅は執着を捨てよ、我から離れよ、あるがまま、今ここを生きよ、と言うのです。

 

ですからもし自分に完全に主人公感がなくなれば、それは悟りと言えます。

私はもちろん、まだ全然無理ですし、死ぬまで無理かもしれません。しかし、自分の主人公感が少なくなり、過剰な執着がなくなって自分から離れられればそれだけ生きやすくなるのは事実です。だからこそ冒頭のtogetterの方は「人生楽しく」なってきたのでしょう。そしてだからこそ禅仏教はこれを目指してきたのであり、禅が人々の間で受け継がれてきたのでしょう。

 

それにこれは、単に楽になるための方策なのでは決してなく、事物は「空」だというのは事実として説得力のある明晰な説明でもあるのですが、これについてはまたいつか別の機会に譲ります。

ここまでだらだらと書きましたが、本日もお読みくださりありがとうございました。合掌。