悲しいとき、それは考えられるとき

経験上、悲しいとき、辛いときのほうが、考えが進む。

悲しいときは、感覚が鋭敏になる。

辛いときは、今まで立ち止まらなかったような形で立ち止まって、気づくことがある。

 

幸せなときとか、うまくいっているときは、だいたいあまり深く考えていない。だって、うまくいっているんだから。

楽しいことを、楽しいように考えているだけだ。私が能天気なだけかもしれないけど。

 

人が本当に深く考えるのは、やっぱり悩んでいるときだと思う。

だから悲しいときにこそ文章を書くべきだ。辛いときこそ、考えることを大切にするべきだ。

少なくとも私はそうやってやってきたし、そうしてつかんだことに何度も助けられてきた。

うまくいっているときには戒めになるし、次にまた辛くなったときには、支えになる。

 

たとえば私は薄情な人間なので、物事がうまくいっているときにはすぐ周りの人への感謝を忘れている。あんまりそこに思いを致していない。でもこけてうずくまってみると、その人たちの存在が本当に身に沁みてくる。ああ本当に有り難いんだなと痛感する。これを忘れてはいけないなぁ、この縁で生きているんだなぁと思う。

でも普段は、やっぱりその縁のありがたさを忘れている。まったくどうしようもない人間である。

でもたとえばこの文章を書いたことを思い出せば、普段の自分の言動も少しは律することができるかもしれない。

 

あるいは自分が本当に弱ったときには、ああ自分は弱い人間なんだと心の底から思い知らされる。これも普段は忘れている。そこそこうまくいっているとき、大丈夫なときは、自分はまるでいつも大丈夫な人間なんだっていうような顔をして生きている。

人は弱ったときに自分は弱いと痛感する。

なんだかトートロジーみたいだけど、そうなのだ。

これも書き残しておくと、思いだすことができる。自分は弱い、だめな人間なんだという謙虚な認識を持ち続けることができる。まわりのおかげなのだと、うまくいっているときにも、ちょっとは傲慢にならずに済む。

 

ああ今つらいなっていうときは、だから私はチャンスなんだと思うことにしている。

普段考えないことを見つけられるチャンスだ。

つらいけど、文章を書こうと。ブログでも日記でも何でもいい。

そういうときにしか考えられないことがあるのだから。