好きを書こう! あるいは「森」について。

この前WANIMAさんについて書いてから、本当にWANIMAさんが好きになってきた。

いや、別に嘘を書いたわけではなくて、なんか良いなって感じて勢いで書いただけだったんだけど、はっきり形にすると本当に好きになってきた。

 

これなんだよな、と思う。

 

ものがあるのではなく、言葉があるのだ(超意訳)、と言ったのはフランスの構造主義者たちだった。

もう少し正確に言うと、もの(実体)があるのではなく、言葉(構造)があると言ったソシュールに構造主義は源流を持つ。

たとえば「森」という言葉は森を指すけれど、別に森(的なもの)を指す言葉は「森」じゃなくてもよかったわけで、“forest"とか「プースカ」とかでもよかったはずなのだから、別に森が「森」という名前で呼ばれる必然性はない(恣意性)。たまたま日本語では「もり」という名前になっているだけだ。

そもそも、森っていうものには実体がない。何が森なのか。たくさん木が生えていたら森なのか。じゃあ林とは何が違うのか。何本木があったら森なのか。何本までが林で、何本からが森なのか。そんなのは決められない。これも恣意性だ。結局これが森だと名付けたものが森なのだ。そもそもだから、「森」と名付けなければ森など存在しない。ただ自然に木がたくさん生えている様子を人間が勝手に「森」と呼んでいるだけだ。

それに、「林」や「森」という「言葉」にも実体(決まった形)はない。たとえば木がたくさん生えてる様子を「林」か「森」のどちらかで表しましょうというルールに、新たに「木立」という言葉も加えましょうということになれば、「林」という言葉の価値は変わってしまう。今までは森より少なければ林だったのに、森より少ないだけでなく木立よりは多くなければならない、という風に価値、形が変わる。じゃあ「林」という言葉には決まった形はないじゃないか、ということになる。

決まった形がなく、比較次第、他の言葉との関係で変わってしまうなら、実体があるとは言えない。ただそこには比較や違いや、差異があるだけだ。言葉は他の言葉と比べて、つまり他の言葉との関係性(構造)の中にいれなければ価値が決まらない。これがソシュールのいう差異の体系だ。

恣意性と差異、ざっくり言えばこれがソシュールの言ったことだ。

 

なぜこれが凄かったのか。

森というものには実体はないよ。

「森」という言葉にも実体はない。

どこにも実体はない。

あるのはただ関係性、構造のみなのだ。

そう言ったから。

えー!  実体(もの)が集まって構造を作ってると思ってたのに、そうじゃなくてまず構造があってものができてるの? っていうか、構造があるだけで実体なんてどこにもないの?!

ってなったから大変なことになった。構造主義が大流行することになった。

 

そしてこれは、空や縁起でこの世界を説明する仏教、禅と極めて親和性が高い。

 

さらに、構造があるって言っても、その構造は静かで不変なものじゃないぜ、生成し動いているんだぜっていうことでポスト構造主義みたいなものが始まっていって、これもたとえば無常を説いたり何ものも固定的に実体視しない仏教と非常によく通底するんだけど、それもまた別の話。

 

っていうかこんな話をしようと思ってたんじゃなかった。もっと素朴な話をするつもりだった。

 

要するに、私たちは言葉でできているのだ!(超まとめ)

そして私たち日本人も、言霊という形でこれを知っている。

 

口にした言葉が力を持つ。言葉が私たちを作っていく。

 

だから昔から人は言葉遣いには気をつけなさいと言い、挨拶は大事と言う。

なぜなら私たちがどのように言葉を扱い扱われるかというのが、私たちがどのようにこの世界を扱い扱われるかということだからだ。

 

ならば良い言葉を口にするべきだ。好きを口にし、好きを書くべきだ。

単純だけど私たちは言葉から力をもらうのだ。

 

そう、これを書きたかったんだ。

好きを書こう!

行け行けWANIMA! 

Can Not Behaved!!

Can Not Behaved!!