人は、愛することができない場合には

どうしてこんなこと言うんだろうなあっていうブログとか発言とかに出会ったとき、私はいつも思い出す言葉があります。

 

人は、愛することができない場合には、そこを――通り過ぎるべきなのだ。

ニーチェ

 

『ツァラトゥストラ』に出てくる言葉です。

これは大切なことだと思うんですね。

 

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こういうことをエントリーにして書くと、國分功一朗さんがドゥルーズの意見として語っていた通り、人は自分で何か考えるんじゃなくて強いられて考えるんだなあと感じます。

何かに出会って、何かに外から迫られて、思考が始まる。

 

自分自身で考えることなんか実はなくて、まわりの環境によって思考が始まり、知っている言葉によって思考が進んでいく。

私たちはそういう風にして作られている。

だからたくさんの言葉を読むことが大切だし、言葉を大切に扱って書いていくことが大切なんだと思います。

 

物事との出会いはほとんどいつも偶然で、自分ではコントロールしきれない。でもだから良いのであって、コントロールしきる必要もないし、全部と取っ組み合う必要もない。

通り過ぎる、流すというのは無視することに近い。近いけど少し違う。同時にそれは許すことにも近い。違うけど少し近い。その微妙な位置にあるからこそ、通り過ぎる、流すことはとても大切になる。自覚的にするべき事柄になる。

何が言いたいかというと、許すことはできなくても、流すことはできるのではないかということです。通り過ぎることはできるのではないか。少なくとも、そういう時はあるのではないか。

 

仏陀は「第二の矢は受けない」と言いました。

たとえば満員電車で誰かに足を踏まれたとする。これはどうしようもない。偶然出会う出来事だし、痛い。これは第一の矢です。

でもそのあとで第二の矢を受ける人と、受けない人がいます。

いてぇな、最悪だ、仕返ししてやろうか、気分悪いな、むかつくな、今日は嫌な日だな、そんな風に思い続ける人は第二、第三の矢を受け続けている。

第一の矢を受けることは仕方ない。しかし、第二の矢を受ける必要はない。お釈迦さまはそう言っているのだと思います。

 

これは愛することができないと思ったとき、ただそこを静かに通り過ぎること、ただ通り過ぎさせること。それが必要な場合もある。そして、愛せるものについてこそ言葉を使う。

このブログは、できるだけそんな風にありたいと思っています。

 

ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書)

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